鹿児島の西郷隆盛像は軍服姿で凜々しい

2008年7月30日 撮影
西郷隆盛像
西郷隆盛(1828~1877)は、同じ鹿児島(薩摩藩)出身の大久保利通とともに明治維新の中核を担った人物である。

この銅像は1937年(昭和12年)5月23日に設置された(鹿児島県鹿児島市城山)。銅像本体は5.76m、台座を含むと8mにもなる巨大なものである。渋谷の忠犬ハチ公像をつくった安藤照が制作を担当した。
西郷隆盛像の大きな写真大きな写真
(1200×1600 ピクセル, 686 Kbyte)
西郷隆盛像
西郷さんの銅像といえば、東京・上野公園にある犬を連れているものが有名だが、こちらは軍服姿で凛々しい。

西郷さんと大久保利通は同郷の出身とされているが、実際の生地は異なる。互いに島津斉彬の薫陶を受けたとはいえ、大久保は政治家の道を歩み、西郷は自らの主張を曲げることなく武士(もののふ)の道を進んだ。

西郷さんは写真嫌いで、すでに銀板写真が普及していたにもかかわらず、彼の写真が1枚も残っていないというのは有名な話である。武士(もののふ)らしい逸話である。
西郷隆盛
西郷さんは鉄道建設にも反対であった。
欧米技術に対する不信というよりは、それより先に貧しい民衆を救うべきだというのが西郷の意見だったらしい。いかにも民衆を第一義に考える西郷さんらしい主張である。
今日の鉄道建設の有様を見せたら、西郷さんは何と言うだろうか‥‥。

西郷さんの真っ直ぐな主張は政府の不興を買った。陸軍大将にのぼりつめたものの、1873年(明治6年)には下野し鹿児島に戻る。
その後も郷土のために奔走した西郷さんは、50才を待たずして故郷・鹿児島で自刃する。明治天皇は「西郷を殺せとは言わなかった」と呟き、その死を嘆いたという。
そして、その翌年の東京、大久保利通もまた40代で凶刃に倒れた。

西郷隆盛・従道兄弟の本名に関する逸話

西郷さんの本名は吉之介隆永 (きちのすけたかなが) である。役人が間違えて西郷隆盛と登録してしまったのだ。

幕末から明治にかけ、名前を音読みするのが流行っていた。西郷さんも自分の名前を「りゅうえい」と伝えた。ところが、訛りのある薩摩弁で喋ったため、役人は「りゅーせー」と聞き間違えてしまい、隆盛で登録してしまったのだった。

ちなみに、実弟の西郷従道 (さいごうしげみち) も、本当の名前は隆永 (たかなが) であるのだが、「りゅうえい」と伝えたつもりが、「じゅーどー(従道)」で登録されてしまった。
だが、西郷兄弟は「気にせんでよか」と笑い飛ばし、そのままにしたという。何とも豪快ではないか。

参考サイト

参考書籍

表紙 海の翼
著者 秋月達郎
出版社 新人物往来社
サイズ 文庫
発売日 2010年03月
価格 785円(税込)
ISBN 9784404037916
イラン・イラク戦争開始から五年後の一九八五年(昭和六十)三月七日、イラク軍は突如、三月十九日以降にイラン領空を飛ぶ航空機の無差別攻撃を宣言。自国機の乗り入れのなかった日本は、イラン国内に取り残された在留日本人の救出対策に苦慮する。タイムリミットが迫るなか、日本人の苦境を知って、救援に動いた国があった…。このトルコ政府の英断の裏には、明治二十三年(一八九〇)九月、日本訪問から帰国中に紀州沖で台風にまきこまれたトルコ軍艦エルトゥールル号遭難の悲劇があったー。百年の時空を超えた“恩返し”を描いた感動の書き下ろし長篇大作。
 
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交通アクセス

【鉄道】
  • 市電「朝日通」下車、徒歩5分
【バス】
  • バス「金生町」下車、徒歩5分

近隣の情報

(この項おわり)
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