ミシシッピ・バブル

ミシシッピ会社の株価推移
18世紀初頭、ルイ14世の晩年のフランスは、度重なる戦争のために財政が破綻しかけていた。フランスは国債を乱発し、貨幣の改鋳を繰り返したため、金貨・銀貨の価値が激しく変動した。
スコットランド生まれの経済学者ジョン・ローは、信用取引を可能とする兌換貨幣の効用をフランス政府に説いた。
スコットランド生まれの経済学者ジョン・ローは、信用取引を可能とする兌換貨幣の効用をフランス政府に説いた。
1716年、ローは総合銀行を設立し、1718年にフランス政府が買い取り王立銀行に改称した。王立銀行は、国民から金貨・銀貨を買い取り、フランス政府が信用を与えた兌換紙幣に交換した。フランス初の紙幣であった。交換レートは、実際の貨幣価値より高く設定されていた。
1715年に即位したルイ15世は、わずか6歳で、14名からなる摂政諮問会議が国政運営に当たっていた。ローは、有力貴族であるオルレアン公フィリップ2世と懇意だったことから、宮廷で出世してゆく。
1715年に即位したルイ15世は、わずか6歳で、14名からなる摂政諮問会議が国政運営に当たっていた。ローは、有力貴族であるオルレアン公フィリップ2世と懇意だったことから、宮廷で出世してゆく。

ジョン・ロー
1718年8月、ローは西方会社を設立し、王立銀行がその株式を発行した。西方会社は北米のフランス領で、毛皮の輸出と金や銀の採掘を行った。
1719年、西方会社は、東インド会社、中国会社などフランスの貿易会社を統合し、インド会社(ミシシッピ会社)となり、王立銀行をも取り込んだ。
ローは、ミシシッピ川の開発を進めることで、ミシシッピ会社がさらに利益を得られるという巧みなマーケティング戦略を打ち、ミシシッピ株は高騰を続けた。王立銀行に現金が入り、フランス財政は持ち直すかに見えた。
1720年1月、ローはフランスの財務総監(財務長官)に任命される。
1719年、西方会社は、東インド会社、中国会社などフランスの貿易会社を統合し、インド会社(ミシシッピ会社)となり、王立銀行をも取り込んだ。
ローは、ミシシッピ川の開発を進めることで、ミシシッピ会社がさらに利益を得られるという巧みなマーケティング戦略を打ち、ミシシッピ株は高騰を続けた。王立銀行に現金が入り、フランス財政は持ち直すかに見えた。
1720年1月、ローはフランスの財務総監(財務長官)に任命される。
しかし、肝心の開発は進まず、同年5月、ミシシッピ会社に対する信用不安が起きた。ピーク時には1万リーブルあった株価は、1721年、500リーブルにまで暴落した。ローはフランス国外へ逃亡し、1729年、ヴェネツィアで死去した。
王立銀行は紙幣を増刷することで損失の穴埋めをしたが、フランス政府の財政は更に悪化した。極端なインフレとなり、フランス国民の生活を直撃した。皮肉なことに、このインフレのおかげで、フランス革命の翌年、インド会社は負債を完済した。
王立銀行は紙幣を増刷することで損失の穴埋めをしたが、フランス政府の財政は更に悪化した。極端なインフレとなり、フランス国民の生活を直撃した。皮肉なことに、このインフレのおかげで、フランス革命の翌年、インド会社は負債を完済した。
南海泡沫事件

南海の株価推移
しかし、スペインとの関係は最悪で、南海会社は想定していた利益を上げることはできなかった。1718年、四カ国同盟戦争が起き、スペインとの交易が断絶する。
南海会社は貿易事業を諦め、富くじ債を発行し、これが大当たりし、当座の資金を確保した。1719年、公債を引き受け、その対価としての南海会社株を発行する許可を得た。
南海会社は貿易事業を諦め、富くじ債を発行し、これが大当たりし、当座の資金を確保した。1719年、公債を引き受け、その対価としての南海会社株を発行する許可を得た。

ロバート・ハーレー
戦争で交易が閉ざされていたため、市場には資金がだぶついていた。投資家はこぞって南海会社の株を買った。
発行当初は100ポンド超だった株価はみるみる上昇し、わずか半年で1050ポンドになった。これに連動し、イングランド銀行や東インド会社の株価も上昇した。このため、政府の許可なく株を発行する会社があらわれはじめた。
発行当初は100ポンド超だった株価はみるみる上昇し、わずか半年で1050ポンドになった。これに連動し、イングランド銀行や東インド会社の株価も上昇した。このため、政府の許可なく株を発行する会社があらわれはじめた。
政府は規制に乗り出したが、これが逆に市場の不安要素となり、投資家は一斉に株を売り始め、バブル崩壊が始まった。翌1721年に入ると、株価は売出し当初の100ポンドを割り込み、経済恐慌を来す。これが南海泡沫事件でで、バブル経済の語源となった。

このとき政権を率いていたホイッグ党のジェームズ・スタンホープが急死し、大蔵卿チャールズ・スペンサーも事態を収拾させることができずに辞任。後任の大蔵卿にロバート・ウォルポールが就任し、ようやく混乱を収拾させた。

このとき政権を率いていたホイッグ党のジェームズ・スタンホープが急死し、大蔵卿チャールズ・スペンサーも事態を収拾させることができずに辞任。後任の大蔵卿にロバート・ウォルポールが就任し、ようやく混乱を収拾させた。
バブル経済の教訓
1991年の日本のバブル崩壊を例に、MBA(経営学修士)の教科書ではそのメカニズムを数学的に解説している。にもかかわらず、2007年のアメリカ住宅バブル崩壊や、それに続くリーマン・ショックを防ぐことはできなかった。
これは自由市場資本主義の根本的欠陥なのだろう。
資本主義には、蓄えた富を資本として再生産に向け、労働者の生活を向上させるという理念があったはずだ。しかし、バブル経済が発生すると、およそ再生産とは関係ないチューリップに資金が集中したり、詐欺まがいの投資話を持ちかけたり、人権を考えない奴隷貿易に手を出してしまった。
バブル経済の崩壊は、国家が市場の加熱を適切に規制できないと、国家そのものの信用が失われ、大不況に見舞われることを歴史の教訓として残している。
これは自由市場資本主義の根本的欠陥なのだろう。
資本主義には、蓄えた富を資本として再生産に向け、労働者の生活を向上させるという理念があったはずだ。しかし、バブル経済が発生すると、およそ再生産とは関係ないチューリップに資金が集中したり、詐欺まがいの投資話を持ちかけたり、人権を考えない奴隷貿易に手を出してしまった。
バブル経済の崩壊は、国家が市場の加熱を適切に規制できないと、国家そのものの信用が失われ、大不況に見舞われることを歴史の教訓として残している。
この時代の世界
(この項おわり)
同じ頃イギリスでは、南海会社への投機が過熱し、ピーク時の株価は1000ポンドを超えた。しかし、政府が規制に乗り出すと、わずか数ヶ月で100ポンドに下落するという南海泡沫事件が起きる。損失を被った投資家たちの怒りの矛先は、南海会社株を賄賂を受け取っていた政治家たちに向けられ、イギリスの政治が混乱する。
この2つの事件は、1637年に起きたチューリップ・バブルと並んで、ヨーロッパ三大バブルと呼ばれる。