西暦1720年 - ミシシッピ・バブル崩壊/南海泡沫事件

バブル崩壊の歴史的教訓
1720年、1万リーブルにまで高騰していたフランスのミシシッピ会社の株価が、信用不安から暴落するミシシッピ・バブルが起きた。翌1721年には500リーブルまで下落し、財務長官ジョン・ローは国外へ逃亡し、フランス国王ルイ15世のもとには膨大な負債が残り、これがフランス革命の遠因となる。

同じ頃イギリスでは、南海会社への投機が過熱し、ピーク時の株価は1000ポンドを超えた。しかし、政府が規制に乗り出すと、わずか数ヶ月で100ポンドに下落するという南海泡沫 (なんかいほうまつ) 事件が起きる。損失を被った投資家たちの怒りの矛先は、南海会社株を賄賂を受け取っていた政治家たちに向けられ、イギリスの政治が混乱する。

この2つの事件は、1637年に起きたチューリップ・バブルと並んで、ヨーロッパ三大バブルと呼ばれる。

ミシシッピ・バブル

ミシシッピ会社の株価推移
ミシシッピ会社の株価推移
18世紀初頭、ルイ14世の晩年のフランスは、度重なる戦争のために財政が破綻しかけていた。フランスは国債を乱発し、貨幣の改鋳を繰り返したため、金貨・銀貨の価値が激しく変動した。
スコットランド生まれの経済学者ジョン・ローは、信用取引を可能とする兌換貨幣の効用をフランス政府に説いた。
1716年、ローは総合銀行を設立し、1718年にフランス政府が買い取り王立銀行に改称した。王立銀行は、国民から金貨・銀貨を買い取り、フランス政府が信用を与えた兌換紙幣に交換した。フランス初の紙幣であった。交換レートは、実際の貨幣価値より高く設定されていた。
1715年に即位したルイ15世は、わずか6歳で、14名からなる摂政諮問会議が国政運営に当たっていた。ローは、有力貴族であるオルレアン公フィリップ2世と懇意だったことから、宮廷で出世してゆく。
ジョン・ロー
ジョン・ロー
1718年8月、ローは西方会社を設立し、王立銀行がその株式を発行した。西方会社は北米のフランス領で、毛皮の輸出と金や銀の採掘を行った。
1719年、西方会社は、東インド会社、中国会社などフランスの貿易会社を統合し、インド会社(ミシシッピ会社)となり、王立銀行をも取り込んだ。
ローは、ミシシッピ川の開発を進めることで、ミシシッピ会社がさらに利益を得られるという巧みなマーケティング戦略を打ち、ミシシッピ株は高騰を続けた。王立銀行に現金が入り、フランス財政は持ち直すかに見えた。
1720年1月、ローはフランスの財務総監(財務長官)に任命される。
しかし、肝心の開発は進まず、同年5月、ミシシッピ会社に対する信用不安が起きた。ピーク時には1万リーブルあった株価は、1721年、500リーブルにまで暴落した。ローはフランス国外へ逃亡し、1729年、ヴェネツィアで死去した。
王立銀行は紙幣を増刷することで損失の穴埋めをしたが、フランス政府の財政は更に悪化した。極端なインフレとなり、フランス国民の生活を直撃した。皮肉なことに、このインフレのおかげで、フランス革命の翌年、インド会社は負債を完済した。

南海泡沫事件

南海の株価推移
南海の株価推移
スペイン継承戦争やアン女王戦争によって財政が逼迫していたイギリスは、1711年、大蔵卿ロバート・ハーレーの発案で、国債の一部を南海会社に引き受けさせ、貿易によって得た利益で償還しようとした。南海会社は、ユトレヒト条約で得た権利を利用して、スペイン領西インド諸島との奴隷貿易を行い利益をあげようとした。
しかし、スペインとの関係は最悪で、南海会社は想定していた利益を上げることはできなかった。1718年、四カ国同盟戦争が起き、スペインとの交易が断絶する。
南海会社は貿易事業を諦め、富くじ債を発行し、これが大当たりし、当座の資金を確保した。1719年、公債を引き受け、その対価としての南海会社株を発行する許可を得た。
ロバート・ハーレー
ロバート・ハーレー
戦争で交易が閉ざされていたため、市場には資金がだぶついていた。投資家はこぞって南海会社の株を買った。
発行当初は100ポンド超だった株価はみるみる上昇し、わずか半年で1050ポンドになった。これに連動し、イングランド銀行や東インド会社の株価も上昇した。このため、政府の許可なく株を発行する会社があらわれはじめた。
政府は規制に乗り出したが、これが逆に市場の不安要素となり、投資家は一斉に株を売り始め、バブル崩壊が始まった。翌1721年に入ると、株価は売出し当初の100ポンドを割り込み、経済恐慌を来す。これが南海泡沫事件でで、バブル経済の語源となった。

このとき政権を率いていたホイッグ党のジェームズ・スタンホープが急死し、大蔵卿チャールズ・スペンサーも事態を収拾させることができずに辞任。後任の大蔵卿にロバート・ウォルポールが就任し、ようやく混乱を収拾させた。

バブル経済の教訓

1991年の日本のバブル崩壊を例に、MBA(経営学修士)の教科書ではそのメカニズムを数学的に解説している。にもかかわらず、2007年のアメリカ住宅バブル崩壊や、それに続くリーマン・ショックを防ぐことはできなかった。
これは自由市場資本主義の根本的欠陥なのだろう。
資本主義には、蓄えた富を資本として再生産に向け、労働者の生活を向上させるという理念があったはずだ。しかし、バブル経済が発生すると、およそ再生産とは関係ないチューリップに資金が集中したり、詐欺まがいの投資話を持ちかけたり、人権を考えない奴隷貿易に手を出してしまった。
バブル経済の崩壊は、国家が市場の加熱を適切に規制できないと、国家そのものの信用が失われ、大不況に見舞われることを歴史の教訓として残している。

この時代の世界

1625 1675 1725 1775 1825 1720 ミシシッピ・バブル崩壊 1671 1729 ジョン・ロー 1674 1723 フィリップ2世 1720 南海泡沫事件 1661 1724 ロバート・ハーレー 1638 1715 ルイ14世 1710 1774 ルイ15世 1713 ユトレヒト条約 1701 1714 スペイン継承戦争 1721 最初のイギリス首相 1676 1745 ロバート・ウォルポール 1660 1727 ジョージ1世 1709 アン法の制定 1688 名誉革命 1665 1714 アン 1740 1748 オーストリア継承戦争 1719 「ロビンソン・クルーソー」出版 1660 1731 ダニエル・デフォー 1676 1721 アレキサンダー・セルカーク 1722 イースター島の発見 1726 「ガリバー旅行記」の出版 1667 1745 スウィフト 1642 1727 ニュートン 1663 1729 トーマス・ニューコメン 1659 1729 ロッヘフェーン 1683 1746 フェリペ5世 1689 1755 モンテスキュー 1685 1740 カール6世 1705 ハレー彗星を予言 1656 1742 エドモンド・ハレー 1725 バイオリン協奏曲「四季」発表 1678 1741 ヴィヴァルディ 1728 恒星の年周光行差の観測 1693 1762 ジェームズ・ブラッドリー 1702 赤穂浪士の討ち入り 1707 宝永の大噴火 1707 宝永地震 1709 1716 徳川家継 1716 享保の改革 1731 1732 享保の大飢饉 1677 1751 大岡忠相 1684 1751 徳川吉宗 1653 1724 近松門左衛門 1689 おくのほそ道 1657 1725 新井白石 1678 1735 雍正帝 1721 ロシア帝政始まる 1672 1725 ピョートル1世 1688 1747 ナーディル・シャー 1703 1787 ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ 1702 1713 アン女王戦争 1752 フランクリンの雷実験 1706 1790 ベンジャミン・フランクリン 1722 イースター島の発見 Tooltip
(この項おわり)
header