シリーズ概要

ジャック・トラミエル「いちばん安く、いちばん多く売った者が、マーケットを支配する」
1975年、米カリフォルニア州ロスアルトスのガレージで、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックはコンピュータを作っていた。あと必要な部品は、メモリに使う DRAM だ。2人は、カリフォルニア州サンタクララにあるインテル本社に押しかけた。ジョブズは「オレたちの革命に、ちょっとした貢献をさせてやる」と豪語すると、タダで DRAM を手に入れてしまう。ジョブズとウォズニアックにロン・ウェインが加わり、アップル・コンピュータが設立される。
カリフォルニア州メロンパークで開催されているホームブリューコンピュータクラブ(HCC)に乗り込んだジョブズとウォズニアックは、開発した基板を紹介するが、アルテアの熱狂的なファン達の心を動かすことはできなかった。そこで偶然、世界初のコンピュータ専門店「バイトショップ」のオーナー、ポール・テレルに出会う。翌日、バイトショップを訪れたジョブズは、テレルから開発したコンピュータを100台受注する。ジョブズの妹パティと旧友ダン・コトケが加わり、手作業でコンピュータを製造するが、とても納期には間に合いそうもない。会社設立から2週間でロンは去って行った。
ジョブズがテレルに納品した100台は基板だけだった。だが、事情を察したテレルは、気前よく5万ドルを支払い、「これからが見物やなあ。ニイサンが希代の詐欺師になるか、はたまた、ほんまに世界を変えるんか」と言った。その後、テレルは基板を洒落た木の箱に入れて売り出した。電源を入れればすぐ使えるよう、基本的なソフトウェアをROMに格納した世界初のパーソナルコンピュータ「Apple I」の誕生だった。

コモドールの社長ジャック・トラミエルはアウシュビッツ収容所から生還した男だ。ジョブズは彼に50万ドルの投資を持ちかけたが、トラミエルはウォズニアックを付けろと譲らない。トラミエルは「いちばん安く、いちばん多く売った者が、マーケットを支配する」と豪語する。
ウォズニアックの父は彼にジョブズとのパートナー解消を迫るが、ウォズニアックはジョブズは「ものごとを正しくする人間なんダな」と言って譲らない。次のコンピュータの拡張スロットを2つにすることにこだわっていたジョブズは、ウォズニアックが提案する8本で妥協するのだった。

ジョブズは、共産主義者で電源の技術者ロッド・ホルト、HP社で家電デザイナーをしていたジェリー・マノック、HCCに出入りしていた少年ランディ・ウィギントンとクリス・エスピノーザを迎え入れ、次のコンピュータの開発を加速させる。
ジョブズは、投資会社セコイア・キャピタルのボス、ドン・バレンタインに会い、「ただの投資家じゃダメだ、経営に参加してリスクを取る奴が要る」と迫ると、フェアチャイルドとインテルで働いた経験がある投資家マイク・マークラを紹介される。アップル・コンピュータのガレージを訪れたマークラは、ウォズニアックの設計の凄さを理解し、25万ドルの出資を約束する。時に1976年。
同じ頃、ビル・ゲイツとポール・アレンがバイトショップを訪れ、「Apple I」を見物していた。
カリフォルニア州メロンパークで開催されているホームブリューコンピュータクラブ(HCC)に乗り込んだジョブズとウォズニアックは、開発した基板を紹介するが、アルテアの熱狂的なファン達の心を動かすことはできなかった。そこで偶然、世界初のコンピュータ専門店「バイトショップ」のオーナー、ポール・テレルに出会う。翌日、バイトショップを訪れたジョブズは、テレルから開発したコンピュータを100台受注する。ジョブズの妹パティと旧友ダン・コトケが加わり、手作業でコンピュータを製造するが、とても納期には間に合いそうもない。会社設立から2週間でロンは去って行った。
ジョブズがテレルに納品した100台は基板だけだった。だが、事情を察したテレルは、気前よく5万ドルを支払い、「これからが見物やなあ。ニイサンが希代の詐欺師になるか、はたまた、ほんまに世界を変えるんか」と言った。その後、テレルは基板を洒落た木の箱に入れて売り出した。電源を入れればすぐ使えるよう、基本的なソフトウェアをROMに格納した世界初のパーソナルコンピュータ「Apple I」の誕生だった。

コモドールの社長ジャック・トラミエルはアウシュビッツ収容所から生還した男だ。ジョブズは彼に50万ドルの投資を持ちかけたが、トラミエルはウォズニアックを付けろと譲らない。トラミエルは「いちばん安く、いちばん多く売った者が、マーケットを支配する」と豪語する。
ウォズニアックの父は彼にジョブズとのパートナー解消を迫るが、ウォズニアックはジョブズは「ものごとを正しくする人間なんダな」と言って譲らない。次のコンピュータの拡張スロットを2つにすることにこだわっていたジョブズは、ウォズニアックが提案する8本で妥協するのだった。

ジョブズは、共産主義者で電源の技術者ロッド・ホルト、HP社で家電デザイナーをしていたジェリー・マノック、HCCに出入りしていた少年ランディ・ウィギントンとクリス・エスピノーザを迎え入れ、次のコンピュータの開発を加速させる。
ジョブズは、投資会社セコイア・キャピタルのボス、ドン・バレンタインに会い、「ただの投資家じゃダメだ、経営に参加してリスクを取る奴が要る」と迫ると、フェアチャイルドとインテルで働いた経験がある投資家マイク・マークラを紹介される。アップル・コンピュータのガレージを訪れたマークラは、ウォズニアックの設計の凄さを理解し、25万ドルの出資を約束する。時に1976年。
同じ頃、ビル・ゲイツとポール・アレンがバイトショップを訪れ、「Apple I」を見物していた。
ビル・ゲイツ「君らがやっていることは、ソフトウェア産業の破壊だ。端的に言って、盗みだ」
ビル・ゲイツは、米マサチューセッツ州にあるハーバード大学で退屈な日々を過ごしていた。ポール・アレンはアルテアの広告をゲイツに見せると、ゲイツはアルテアを開発したMITSのエド・ロバーツに電話をかけ、BASIC言語を売り込んだ。ゲイツはアレンのエミュレータを使い、存在しないマシンのBASICインタプリタを作ってしまう。「これから生まれるすべてのコンピュータに、遍く言葉を広めよう」とゲイツは言う。ゲイツとアレンはBASICのサポートのため、大学を休学し、アルバカーキのアパートの一室にマイクロソフトという会社を設立する。
ゲイツとアレンは、IBMが出したフロッピーディスクにアルテアを接続するディスクBASICを開発し、アルテアの売上は100万ドルを突破した。にもかかわらず、BASICの使用料は立った1万6千ドル、200本分でしかなかった。ハッカーたちがBASICの紙テープをコピーしていたのだ。ゲイツは「罪人たちは報いを受けねばならない」と宣言し、コンピュータノーツ誌に「ホビイストへの手紙」を掲載し、ホームブリューコンピュータクラブ(HCC)に乗り込む。

一方、クパチーノの新しい社屋に移ったスティーブ・ジョブズのアップル・コンピュータでは、スティーブ・ウォズニアックがアップルの業務に集中するため、ヒューレット・パッカードを退職した。だが、納品された新しいケースの品質は散々な有様だった。
1977年4月16日、サンフランシスコで開催されたウェスト・コースト・コンピュータ・フェア(WCCF)で「Apple II」がお披露目された。16色カラー、高解像度モード、カセットI/FやゲームI/O、テレビ出力や最大48Kバイトまで拡張できるメモリなど、ハードウェア・スペックで他社を圧倒していた。そこへ[ビル・ゲイツsが現れ、アップルのBASICでは浮動小数が使えるのかと聞いてきた。
ジョブズとゲイツの間で、アップルがマイクロソフトの BASIC を使うという契約が交わされる。一括買い取りで2万1千ドルという破格の契約料だが、8年後に契約を見直すという形で合意がなされた。ジョブズの予想に反し、8年後も Apple II がアップル・コンピュータを支えていたため、この契約はアップルに重い枷となってくるのだった。
ゲイツとアレンは、IBMが出したフロッピーディスクにアルテアを接続するディスクBASICを開発し、アルテアの売上は100万ドルを突破した。にもかかわらず、BASICの使用料は立った1万6千ドル、200本分でしかなかった。ハッカーたちがBASICの紙テープをコピーしていたのだ。ゲイツは「罪人たちは報いを受けねばならない」と宣言し、コンピュータノーツ誌に「ホビイストへの手紙」を掲載し、ホームブリューコンピュータクラブ(HCC)に乗り込む。

一方、クパチーノの新しい社屋に移ったスティーブ・ジョブズのアップル・コンピュータでは、スティーブ・ウォズニアックがアップルの業務に集中するため、ヒューレット・パッカードを退職した。だが、納品された新しいケースの品質は散々な有様だった。
1977年4月16日、サンフランシスコで開催されたウェスト・コースト・コンピュータ・フェア(WCCF)で「Apple II」がお披露目された。16色カラー、高解像度モード、カセットI/FやゲームI/O、テレビ出力や最大48Kバイトまで拡張できるメモリなど、ハードウェア・スペックで他社を圧倒していた。そこへ[ビル・ゲイツsが現れ、アップルのBASICでは浮動小数が使えるのかと聞いてきた。
ジョブズとゲイツの間で、アップルがマイクロソフトの BASIC を使うという契約が交わされる。一括買い取りで2万1千ドルという破格の契約料だが、8年後に契約を見直すという形で合意がなされた。ジョブズの予想に反し、8年後も Apple II がアップル・コンピュータを支えていたため、この契約はアップルに重い枷となってくるのだった。
スティーブズ 第3巻
マイク・スコット「お前は“今の居場所”が窮屈なんじゃないか? だから苛立っている。そこから何が見える。大人になれ。風景が変わるぞ」
スティーブ・ジョブズの横暴を抑えようと、マイク・マークラはマイク・スコットを CEO としてアップル・コンピュータに送り込む。スコットはジョブズにビジネスの厳しさを叩き込む。コモドールの PET2001 は Apple II の6倍、タンディのTRS-80は160倍も売れているのが事実だった。そして、外注業者との信頼関係の築き方を教える。
そんなとき、ケースの金型が壊れてしまう。ジョブズが値切って一番安い金型にしたためだった。代わりの金型を作ろうにも、クパチーノ中の業者が断ってきた。[ジョブズはワシントン州シアトルのテンプレス社に乗り込み、最高の技術には金を出すと言って、納期が1日早まる毎に1千ドルのバーナスを出そうと提案する。スコットは「お前は会社のことを救った。金のことは任せろ」とジョブズに伝える。1977年12月、テンプレス社はジョブズの期待に応えてケースを供給し、Apple II の製造が再開できた。

1978年春、アップルはクパチーノ内で15倍広い新社屋に引っ越す。そんなとき、ジョブズと交際していたクリスアンは、ジョブズに影響を与えたヒッピーのリーダー、ロバート・フリーランドのコミューンに身を寄せ、娘リサを出産した。
そんなとき、ケースの金型が壊れてしまう。ジョブズが値切って一番安い金型にしたためだった。代わりの金型を作ろうにも、クパチーノ中の業者が断ってきた。[ジョブズはワシントン州シアトルのテンプレス社に乗り込み、最高の技術には金を出すと言って、納期が1日早まる毎に1千ドルのバーナスを出そうと提案する。スコットは「お前は会社のことを救った。金のことは任せろ」とジョブズに伝える。1977年12月、テンプレス社はジョブズの期待に応えてケースを供給し、Apple II の製造が再開できた。

1978年春、アップルはクパチーノ内で15倍広い新社屋に引っ越す。そんなとき、ジョブズと交際していたクリスアンは、ジョブズに影響を与えたヒッピーのリーダー、ロバート・フリーランドのコミューンに身を寄せ、娘リサを出産した。
スティーブ・ジョブズ「不遇の子‥‥か。このスティーブ・ジョブズ、確かに預かった」
IBMに敗れ倒産したファーガソンデータ社長の娘アン・ファーガソンは、アップルを利用して IBMN を倒そうと人的資源部長として入社してきた。Disk II の大成功で、アップルには、インテルやヒューレット・パッカードから多くの人材が流れ込んだ。だが、大企業出身の新入社員とオリジナルメンバーの間には、次第に溝が広がっていく。
そんななか、Apple II のサポートにかかりきりのスティーブ・ウォズニアックに距離感を感じたスティーブ・ジョブズは、次世代機「Apple III」の開発会議に口を挟むようになる。

一方、ビル・ゲイツとポール・アレンは、ニューヨーク州アーモンクのIBM本社を訪れ、インテルが発表した16ビットCPU「8086」向けの BASIC を開発しているとプレゼンする。IBM社内で秘密裏に低価格コンピュータを開発しているフィリップ・ドン・エストリッジは、ゲイツの話を聞いていた。
Apple IIのケースをデザインしたジェリー・マノックがアップルに入社し、ジョブズを説得。ジョブズは Apple III プロジェクトに口出ししなくなったが、別のプロジェクトに介入し、構想中のコンピュータに娘の名「Lisa」を付ける。

ゼロックスからアップルに非公開株10万株を買いたいという申し出があった。PascalをApple IIに1ヶ月で移植したビル・アトキンソンは、その噂を耳にし、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)を見学したいと言い出す。PARC 見学の価値に気付いたジョブズは、10万株と引き替えに、すべてを見せろと PARC に迫る。PARC 見学では、アデル・ゴールドバーグが出迎える。マウスや GUI を使ったデモにアトキンソンは感動するが、ジョブズは「まだあるはずだ。全部見せろ」と言い出す。そこへアラン・ケイが現れ、未来を知る一番いい方法は、自分で作ることだと言って意気投合する。Smalltalk とマルチウィンドウシステムを見せられたジョブズは、「大事なのは、ウィンドウがどう重なるかじゃねえ‥‥なぜ重なるか‥‥だ。現実の“紙”が重なるから‥‥だろ」と、マルチウィンドウシステムの思想を理解する。ジョブズは続ける。「普通のエンジニアなら、こう答えるだろう。『できません』と。凡庸なビジョナリなら、こう考えるだろう。『スペックの範囲でできることを』と。だが、アンタらは逃げなかった。オレがここで見たのは、その強い思いだ」。研究成果がゼロックス本社に理解されないゴールドバーグの目から涙が落ちる。
クパチーノに戻ったアトキンソンは、マッキントッシュ・プロジェクトのジェフ・ラスキンに成果を報告する――。
そんななか、Apple II のサポートにかかりきりのスティーブ・ウォズニアックに距離感を感じたスティーブ・ジョブズは、次世代機「Apple III」の開発会議に口を挟むようになる。

一方、ビル・ゲイツとポール・アレンは、ニューヨーク州アーモンクのIBM本社を訪れ、インテルが発表した16ビットCPU「8086」向けの BASIC を開発しているとプレゼンする。IBM社内で秘密裏に低価格コンピュータを開発しているフィリップ・ドン・エストリッジは、ゲイツの話を聞いていた。
Apple IIのケースをデザインしたジェリー・マノックがアップルに入社し、ジョブズを説得。ジョブズは Apple III プロジェクトに口出ししなくなったが、別のプロジェクトに介入し、構想中のコンピュータに娘の名「Lisa」を付ける。

ゼロックスからアップルに非公開株10万株を買いたいという申し出があった。PascalをApple IIに1ヶ月で移植したビル・アトキンソンは、その噂を耳にし、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)を見学したいと言い出す。PARC 見学の価値に気付いたジョブズは、10万株と引き替えに、すべてを見せろと PARC に迫る。PARC 見学では、アデル・ゴールドバーグが出迎える。マウスや GUI を使ったデモにアトキンソンは感動するが、ジョブズは「まだあるはずだ。全部見せろ」と言い出す。そこへアラン・ケイが現れ、未来を知る一番いい方法は、自分で作ることだと言って意気投合する。Smalltalk とマルチウィンドウシステムを見せられたジョブズは、「大事なのは、ウィンドウがどう重なるかじゃねえ‥‥なぜ重なるか‥‥だ。現実の“紙”が重なるから‥‥だろ」と、マルチウィンドウシステムの思想を理解する。ジョブズは続ける。「普通のエンジニアなら、こう答えるだろう。『できません』と。凡庸なビジョナリなら、こう考えるだろう。『スペックの範囲でできることを』と。だが、アンタらは逃げなかった。オレがここで見たのは、その強い思いだ」。研究成果がゼロックス本社に理解されないゴールドバーグの目から涙が落ちる。
クパチーノに戻ったアトキンソンは、マッキントッシュ・プロジェクトのジェフ・ラスキンに成果を報告する――。
スティーブズ 第5巻
ビル・ゲイツ「必要なのは優れたマシンじゃない。優れたソフトだ」
マイク・スコット「“血の雨”を降らせる覚悟はすでにした。ワシは、アップル・コンピュータ最高経営責任者マイク・スコットである」
スティーブ・ジョブズ「海軍に入るより、海賊であれ!!」
アン・ファーガスン「あなた方は無垢すぎる。青き巨人はすべてを蹂躙する。圧倒的な物量で、すべてをなぎ払う」
マイク・スコット「“血の雨”を降らせる覚悟はすでにした。ワシは、アップル・コンピュータ最高経営責任者マイク・スコットである」
スティーブ・ジョブズ「海軍に入るより、海賊であれ!!」
アン・ファーガスン「あなた方は無垢すぎる。青き巨人はすべてを蹂躙する。圧倒的な物量で、すべてをなぎ払う」
1980年8月、IBMはパーソナルコンピュータ開発計画「プロジェクトチェス」を承認する。ついに青い巨人が動き出した。ドン・エストリッジはビル・ゲイツに話を伝え、OS と BASIC の開発を依頼する。

Apple III は発売されたが、市場に多くの不良品を出してしまう。
アップルのIPOを前に、マイク・スコットはスティーブ・ジョブズを Lisa チームから外す。1980年12月12日、創立からわずか3年で、アップル・コンピュータはIPOを果たした。22ドルという破格の初値がついた。100万ドル以上の資産を得たものは社員だけで30人、社外を含めると300人を超えた。
だが、スコットは大規模なレイオフを実行する。そこへジョブズが現れ、「海軍に入るより、海賊であれ!!」と言い放つ。ジョブズは Macintosh プロジェクトを奪い、1981年、ジェフ・ラスキンはアップルから姿を消した。同年3月、初代 CEO マイク・スコットが辞職する。スティーブ・ウォズニアックは株で稼いだ金で自家用セスナを購入するが、操縦中に事故を起こしてしまう。

Apple III は発売されたが、市場に多くの不良品を出してしまう。
アップルのIPOを前に、マイク・スコットはスティーブ・ジョブズを Lisa チームから外す。1980年12月12日、創立からわずか3年で、アップル・コンピュータはIPOを果たした。22ドルという破格の初値がついた。100万ドル以上の資産を得たものは社員だけで30人、社外を含めると300人を超えた。
だが、スコットは大規模なレイオフを実行する。そこへジョブズが現れ、「海軍に入るより、海賊であれ!!」と言い放つ。ジョブズは Macintosh プロジェクトを奪い、1981年、ジェフ・ラスキンはアップルから姿を消した。同年3月、初代 CEO マイク・スコットが辞職する。スティーブ・ウォズニアックは株で稼いだ金で自家用セスナを購入するが、操縦中に事故を起こしてしまう。
スティーブズ 第6巻
現実歪曲フィールドとは、強い意志の力で不確定性を消滅させ、ひとつの未来を形作っていく、そんな能力にほかならない」
ジェフ・ラスキンに出会ったワシントン大学の医学生バド・トリブルは、大学を休学し、Macintoshプロジェクトに入った。彼は、SFドラマ「スタートレック」の第11、12話「タロス星の幻怪人」に着想を得て、スティーブ・ジョブズの強引な説得術を現実歪曲空間と名付けた。
ジョブズはビル・ゲイツを呼び出し、Macintosh のデモ機を見せる。世界初の汎用16ビットOS「MS-DOS」を完成させたゲイツだったが、Macintosh の GUI がソフトで動いていることに驚愕する。ジョブズはゲイツに囁く。「特別にMac用のアプリを作らせてやる。条件はたったひとつ。オレたちが決めた操作性のルールは、サードパーティも必ず守ること。もちろんマイクロソフトもだ。そうすれば、お前らでも、美しいアプリを作ることができる」。だが、負けることが何よりも嫌いなゲイツは、Windows の開発に着手する。

飛行機事故の後遺症に悩むスティーブ・ウォズニアックはアップルを離れ、大学に復学した。
1981年8月12日、ニューヨークで IBM PC が発表される。
ジョブズはドン・エストリッジをCEOに迎えようとするが断られ、マイク・マークラの紹介でペプシコのジョン・スカリーを迎えることになった。
1982年9月、Windows 開発の真っ最中だったマイクロソフトでは、ポール・アレンが病魔に冒され、引退を余儀なくされた。
1983年1月、アップルは「Lisa」発売する。一方、マイクロソフトは11月のCOMDEXで Windows を発表する。Windowsの発表と同時に、Lisaの注文がストップしてしまう。
1984年1月22日に開催された第18回スーパーボウルの第3クォータで MacintoshのCMが流れる。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』のオマージュし、「あなたは1984年が、『1984』のようにはならない理由を知ることになる」と語るジョブズは、Macintoshに喋らせてみせる。発表と同時に発売したMacintoshは順調に売上を伸ばし、5万台という目標を最初の100日で上回った。

このとき、ゲイツは「ずいぶん派手に未来をねじ曲げたね。たださ、歪んだ世界は、元に戻ろうと反発するからねー」とつぶやく。
ゲイツの予言通り、好調だった Macintosh の売り上げは失速し、その責任を負ってジョブズはアップルを追放される。その後、3人の CEO がアップルを立て直そうとするが、いずれも失敗。10年の月日が流れ、アップルはあと数十日で倒産するところまで追い込まれていた。そんななか、ジョブズがアップルに復帰する――。
ジョブズはビル・ゲイツを呼び出し、Macintosh のデモ機を見せる。世界初の汎用16ビットOS「MS-DOS」を完成させたゲイツだったが、Macintosh の GUI がソフトで動いていることに驚愕する。ジョブズはゲイツに囁く。「特別にMac用のアプリを作らせてやる。条件はたったひとつ。オレたちが決めた操作性のルールは、サードパーティも必ず守ること。もちろんマイクロソフトもだ。そうすれば、お前らでも、美しいアプリを作ることができる」。だが、負けることが何よりも嫌いなゲイツは、Windows の開発に着手する。

飛行機事故の後遺症に悩むスティーブ・ウォズニアックはアップルを離れ、大学に復学した。
1981年8月12日、ニューヨークで IBM PC が発表される。
ジョブズはドン・エストリッジをCEOに迎えようとするが断られ、マイク・マークラの紹介でペプシコのジョン・スカリーを迎えることになった。
1982年9月、Windows 開発の真っ最中だったマイクロソフトでは、ポール・アレンが病魔に冒され、引退を余儀なくされた。
1983年1月、アップルは「Lisa」発売する。一方、マイクロソフトは11月のCOMDEXで Windows を発表する。Windowsの発表と同時に、Lisaの注文がストップしてしまう。
1984年1月22日に開催された第18回スーパーボウルの第3クォータで MacintoshのCMが流れる。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』のオマージュし、「あなたは1984年が、『1984』のようにはならない理由を知ることになる」と語るジョブズは、Macintoshに喋らせてみせる。発表と同時に発売したMacintoshは順調に売上を伸ばし、5万台という目標を最初の100日で上回った。

このとき、ゲイツは「ずいぶん派手に未来をねじ曲げたね。たださ、歪んだ世界は、元に戻ろうと反発するからねー」とつぶやく。
ゲイツの予言通り、好調だった Macintosh の売り上げは失速し、その責任を負ってジョブズはアップルを追放される。その後、3人の CEO がアップルを立て直そうとするが、いずれも失敗。10年の月日が流れ、アップルはあと数十日で倒産するところまで追い込まれていた。そんななか、ジョブズがアップルに復帰する――。
レビュー

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック
自分の青春時代を振り返りながら、気持ちよく最後まで読むことができた。いまでこそ、わが家には Macintosh が何台も稼動しているが、私は Apple I、Apple II を知らない。

Apple I
Apple II のキラーアプリだったRPG「Wizardry」が、ビル・アトキンスが作ったPascalで動いており、そのおかげで日本のホビーパソコンに移植された Wizardry と Pascal を通じて、おぼろげながらアップル・コンピュータの存在を認識していた。

Macintosh 128K
はじめて秋葉原で Macintosh 128K を目にしたときは、その値札に度肝を抜かれ、その機能を知るところまでいかなかった。
そんな、私が知らない時代のアップル・コンピュータの内側と、マイクロソフトや競合他社との戦いを、本書は事細かに、しかも面白おかしく描き出している。
そんな、私が知らない時代のアップル・コンピュータの内側と、マイクロソフトや競合他社との戦いを、本書は事細かに、しかも面白おかしく描き出している。

プログラム電卓「FX-502P」

シャープ「MZ-1500」
1984年11月、初めてパソコンを、シャープの「MZ-1500」を購入する。すでに Macintosh 128K が国内販売されていたが、前述のように手が出る価格ではなかったし、それどころか、NECや富士通のホビーパソコンも手が出なかった。MZ-1500にもBASICインタプリタが標準添付されていたが、これがマイクロソフト製ではなく、シャープ純正。

シャープ「MZ-2500」

Performa 5220
1995年の夏のボーナスで購入した Performa 5220が、初めての Macintosh だった。Windows 95 やデジカメが発売され、のちにインターネット元年と呼ばれるようになった 1995年になり、ようやく、しがないサラリーマンでも Macintosh が買える時代になったのだ。
この後、ジョブズがアップルに電撃復帰し、講演で来日したときに話を聞き、その後仕事の関係で直接会話をしたことがある。
実体験として現実歪曲空間は存在するが、それがゆえに、私は彼の下で働きたいとは思わない。私の立ち位置はビル・ゲイツに近い(ゲイツとも会話したことがある)。天体の軌道計算を行うように、私はプログラムで計算できる未来しか選択しないからだ。量子力学的な、あるいは折り畳まれた余剰次元から力を取り出すようなジョブズのビジネスにはついていけない。
とはいえ、Apple の製品はとても使いやすい。Windows 7 を動かす最適なデスクトップ機は iMac だと思った(笑)。マイクロソフトは、何度かハードウェアを出すが長続きしない。一方の Apple は、Apple M1 の開発に成功し、ついにCPUからソフトウェアまで全て自社製品で賄えるようになった。しかも、I/Oやメモリまで取り込んだSoCで、その基板は極端に小さく冷却も最小限で済む。草葉の陰でジョブズのほくそ笑む姿が目に浮かぶようだ。
実体験として現実歪曲空間は存在するが、それがゆえに、私は彼の下で働きたいとは思わない。私の立ち位置はビル・ゲイツに近い(ゲイツとも会話したことがある)。天体の軌道計算を行うように、私はプログラムで計算できる未来しか選択しないからだ。量子力学的な、あるいは折り畳まれた余剰次元から力を取り出すようなジョブズのビジネスにはついていけない。
とはいえ、Apple の製品はとても使いやすい。Windows 7 を動かす最適なデスクトップ機は iMac だと思った(笑)。マイクロソフトは、何度かハードウェアを出すが長続きしない。一方の Apple は、Apple M1 の開発に成功し、ついにCPUからソフトウェアまで全て自社製品で賄えるようになった。しかも、I/Oやメモリまで取り込んだSoCで、その基板は極端に小さく冷却も最小限で済む。草葉の陰でジョブズのほくそ笑む姿が目に浮かぶようだ。
(2018年5月18日 読了)
参考サイト
- CHABUDAI:うめ公式ページ
- keiichi matsunaga@ma2:Twitter(現・X)
- 西暦1974年 - 世界初のパソコン「アルテア8800」発売:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1977年 - Apple II 発売:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1981年 - IBM PC発売:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1984年 - Macintosh発売:ぱふぅ家のホームページ
- 『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(ジェフリ・S.ヤング/ウィリアム・L.サイモン,2005年11月)
- 『神の交渉力?』(竹内一正,2008年06月)
- 『僕らのパソコン30年史』(SE編集部,2010年05月)
- 『ザイログZ80伝説』(鈴木哲哉,2020年08月)
1984年までに発売された主なパソコン
メーカー 機種 |
発売時期 定価 |
CPU | OSなど | 主記憶 外部記憶 |
画像表示 |
---|---|---|---|---|---|
MITS Altair 8800 |
1974年12月 約400ドル~ |
8ビット 8080 2MHz |
ROM なし | 256バイト | なし |
IBM IBM 5100 |
1976年5月 約400万円~ |
16ビット IBM PALM 約1.9MHz |
ROM 54Kバイト~ APL, BASIC |
16~64Kバイト 別売磁気テープ |
5インチ モノクロ |
Apple Apple II |
1977年4月 約30万円 |
8ビット MOS6502 約3.58MHz |
ROM 8Kバイト 6K BASIC |
4~64Kバイト 別売FDD |
280×192ドット 6色カラー |
シャープ MZ-80K |
1978年11月 19万8千円 |
8ビット Z80A 2MHz |
ROM: 12K BASIC |
20~48Kバイト カセットテープ |
320×200ドット モノクロ |
富士通 FM-8 |
1981年5月 21万8千円 |
8ビット メイン: 68A09 1.2MHz サブ: 6809 1.0MHz |
ROM: F-BASIC |
64Kバイト 別売FDD,バブルカセット |
640×200ドット 8色カラー 別売漢字ROM |
IBM IBM PC |
1981年8月 34万5千円 |
16ビット 8088 4.77MHz |
ROM: IBM BASIC FD:PC-DOS |
16~256Kバイト FDD |
640×200ドット モノクロ |
NEC PC-8801 |
1981年9月 22万8千円 |
8ビット Z80A 4MHz |
ROM: N-BASIC N88-BASIC 別売漢字ROM |
64Kバイト カセットテープ 別売FDD |
640×200ドット 8色カラー |
シャープ MZ-2000 |
1982年7月 21万8千円 |
8ビット Z80A 4MHz |
ROM: BOOT ROM |
64Kバイト カセットテープ |
640×200ドット 8色カラー(オプション) |
NEC PC-9801 |
1982年10月 29万8千円 |
16ビット 8086 5MHz |
ROM: N88-BASIC 別売漢字ROM FDD:MS-DOS CP/M-86 OS/2 |
128Kバイト 別売FDD |
640×400ドット 8色カラー |
富士通 FM-7 |
1982年11月 12万6千円 |
8ビット 68B09 8MHz |
ROM: F-BASIC FDD:OS-9 |
64Kバイト 別売FDD,バブルカセット |
640×200ドット 8色カラー 別売漢字ROM PSG 3音 |
シャープ X1 |
1982年11月 15万5千円 |
8ビット Z80A 4MHz |
ROM: BOOT ROM カセットテープ:Hu-BASIC |
64Kバイト カセットテープ 別売FDD |
640×200ドット 8色カラー(オプション) PSG 3音 |
シャープ MZ-700 |
1982年11月 7万9800円 |
8ビット Z80A 3.6MHz |
ROM: BOOT ROM カセットテープ:S-BASIC |
64Kバイト カセットテープ 別売FDD |
40桁×25行 8色カラー |
ソニー SMC-777 |
1983年9月 14万8千円 |
8ビット Z80A 4MHz |
ROM: 777-BASIC LOGO FDD:CP/M |
64Kバイト FDD |
640×200ドット 4色カラー PSG 3音 |
シャープ MZ-5500 |
1983年9月 21万8千円~ |
16ビット 8086 5MHz |
ROM: BOOT ROM 漢字ROM 辞書ROM |
128~256Kバイト FDD |
640×400ドット 8色カラー PSG 3音 |
NEC PC-100 |
1983年10月 39万8千円 |
16ビット 8086 7MHz |
ROM: N88-BASIC 別売漢字ROM FDD:MS-DOS N88-DISK BASIC |
128~768Kバイト FDD |
720×512ドット 16色カラー |
Apple Macintosh |
1984年1月 69万8千円 |
16ビット 68000 8MHz |
ROM: System 1.0~ |
128~768Kバイト FDD |
512×342ドット モノクロ |
富士通 FM-77 |
1984年5月 19万8千円 |
8ビット 68B09 8MHz |
ROM: F-BASIC FDD:OS-9 |
64~256Kバイト FDD |
640×200ドット 8色カラー 別売漢字ROM PSG 3音 |
IBM IBM PC/AT |
1984年8月 -- |
16ビット 80286 6MHz |
ROM: IBM BASIC FD:PC-DOS OS/2 |
256~512Kバイト FDD |
640×350ドット 16色カラー |
シャープ X1 turbo |
1984年11月 16万8千円~ |
8ビット Z80A 4MHz |
FDD:Hu-BASIC 漢字ROM |
64Kバイト FDD |
640×400ドット 8色カラー PSG 3音 |
富士通 FM-16β |
1984年12月 35万円~ |
16ビット 80186 8MHz |
FDD:CP/M-86K MS-DOS 漢字ROM |
512K~1Mバイト FDD 別売HDD |
640×400ドット 16色カラー |
パソコンの時代
(この項おわり)
10年弱という短い間に、ガレージキットの Apple I は洗練された Macintosh に進化し、コモドールやタンデムといった大手の参入、そして青い巨人が IBM PC を発売し、マイクロソフトのビルゲイツが MS-DOS や Windows をリリースする。