真珠湾、戦艦ミズーリ、アリゾナ記念館

2018年6月24日 撮影
戦艦ミズーリとアリゾナ記念館 - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
戦艦ミズーリとアリゾナ記念館
Pacific Historic Parks(1 Arizona Memorial Place, Honolulu, Hawaii 96818, Oahu)は、真珠湾に面した国立公園で、PEARL HARBOR VISITOR CENTER、USSアリゾナ記念館、USSミズーリ記念館、USSボーフィン潜水艦など複数の施設から成る。
戦艦ミズーリとアリゾナ記念館 - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(2560×1449 ピクセル, 896 Kbyte)
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
開場は午前7時と早い。(閉場は午後5時)
手荷物は、カメラや傘のみ。バッグなどは持ち込めない。ゲート右側に手荷物預かり所があり、5ドルを払う必要がある。
PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 708 Kbyte)
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
PEARL HARBOR VISITOR CENTERのゲートを入ってすぐ左側に日本語音声ツアーデスクがあり、ここで日本語音声ガイドの入ったプレーヤーとヘッドフォンを借りることができる。7.5ドル。
PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1600×1067 ピクセル, 404 Kbyte)
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
1908年(明治41年)、真珠湾にアメリカ海軍基地が建設され、戦艦を寄せ付けない16インチ砲も備えており、上陸は不可能とされていた。1940年(昭和15年)には、日本の南方政策を牽制するため、太平洋艦隊主力が駐留するようになった。
PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1920×1217 ピクセル, 1065 Kbyte)
戦争への道博物館 - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
暗号解析
敵の攻撃を事前に察知できるかどうかは、暗号解読にかかっていた。戦争への道博物館では、当時の暗号解読について紹介されている。
戦争への道博物館 - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 733 Kbyte)
1941年(昭和16年)11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官が日本に対して交渉文書を提示した。いわゆる「ハル・ノート」である。ここに、帝国主義を止め、中国大陸から撤兵することを求めていたことから、日本軍部はこれを最後通牒と受け止め、対米戦を検討する。同日、南雲忠一中将が率いる機動艦隊を、択捉島からハワイへ向けて出撃させた。
そして、1941年(昭和16年)12月1日の御前会議で対米宣戦布告が決定され、攻撃の30分前に宣戦布告することになった。だが、実際にハル国務長官に宣戦布告が渡されたのは、攻撃の1時間後だった。在米日本大使館が暗号解読に遅れたと言われている。

12月2日17時30分、大本営から太平洋機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。

2011年(平成23年)12月、米軍史料から真珠湾攻撃前に米軍が日本軍の暗号をほぼ解読していたという報告書が公表された。しかし、当時の米軍はドイツ軍の情報収集に追われており、真珠湾攻撃について十分な人員さえあれば奇襲にはならなかっただろうとのコメントを付けている。
攻撃時資料博物館 - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
レーダー・ストーリー
攻撃時資料博物館では、レーダーについての展示がある。

真珠湾は航空攻撃に弱いという指摘を受けていたことから、1941年(昭和16年)7月下旬、6台のレーダーが設置された。12月7日、レーダーステーションは50機を超える飛行編隊が接近する模様を捉えていたが、この日は日曜日で本職の管制官は休みだった。そこで、若手陸軍航空隊パイロットのカーミット・タイラー陸軍中尉が対応したのだが、その日に到着する予定の12機のB-17と誤認し、「気にするな」という曖昧な返事をしたという。
攻撃時資料博物館 - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1207×1920 ピクセル, 814 Kbyte)
USSアリゾナの鐘 - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
USSアリゾナの鐘
1941年(昭和16年)12月7日7時49分(現地時間)、航空攻撃隊の第一陣が真珠湾上空に到達し、総指揮官の淵田美津雄は、旗艦赤城に「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)と打電した。

午前8時(日本時間8日午前3時30分)、急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ爆撃を開始し、真珠湾攻撃が始まった。ホノルル海軍航空基地作戦士官のローガン・ラムジー中佐は、Air Raid Pearl Harbor This Is No Drill !!!(真珠湾空襲、演習にあらず)という電文を平文で打った。フォード基地司令官のパトリック・ベリンジャー少将が署名しており、アラスカに至るまで全アメリカ海軍基地に警戒を呼びかけた。

最初の魚雷は戦艦ウエストバージニアに命中し、次いで、戦艦アリゾナに爆弾が命中。アリゾナの火薬庫が大爆発を起こし沈没。約千人の乗組員が即死した。
USSアリゾナの鐘 - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1222×1920 ピクセル, 649 Kbyte)
USSアリゾナの碇 - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
USSアリゾナの碇
大本営は、戦艦5隻撃沈・3隻大破修理不能と報じたが、実際にアメリカ軍が失った戦艦はアリゾナとオクラホマの2隻のみで、これ以外は修理・復帰している。
USSアリゾナの碇 - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 742 Kbyte)
The Lone Sailor - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
The Lone Sailor
アリゾナの碇を見守るように、The Lone Sailorの銅像が建っている。
海軍関係の記念碑として、1987年(昭和62年)から全米各地に建設されており、ここにあるものは2017年(平成29年)10月にできたばかりである。

9時40分(ワシントン時間13時40分)、真珠湾攻撃の第一報がルーズベルト大統領のもとに届いた。海軍長官のフランク・ノックスより電話で「真珠湾に空襲、演習にあらず」と知らされ、ルーズベルトが、即座に日本の奇襲を確信したのは、事前に暗号を解読していたという説もある。
The Lone Sailor - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1280×1920 ピクセル, 1025 Kbyte)
Tree of Life - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
Tree of Life
翌12月8日、ルーズベルトは議会と国民に向けて演説を行い、「アメリカ合衆国にとって恥辱の日」と述べ、議会も国民も熱狂した。こうして太平洋戦争が始まる。

写真は平和記念碑 Tree of Life――この地球に生きるすべてのものが互いにつながりあっている様子をユニバーサル・シンボルとし、ハワイに住むオーストリア系アメリカ人建築家アルフレッド・ブレイスによってデザインされた。
Tree of Life - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1202×1920 ピクセル, 367 Kbyte)
レギュラス・ミサイル - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
レギュラス・ミサイル
ヴォート社によって開発されたアメリカ海軍最初の艦対地ミサイル「レギュラス」は1954年(昭和29年)に実戦配備された。全長10.1メートルで、核弾頭を搭載可能。射程は925kmである。500機が生産され、1964年(昭和39年)に退役した。
レギュラス・ミサイル - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 782 Kbyte)
ポラリス - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
ポラリス・ミサイル
奥のものはポラリス・ミサイル(A1)で、ロッキード社が開発したアメリカ海軍の最初のSLBMである。1961年(昭和36年)に実戦配備された。全長8.7メートルで、射程は2200kmにも達する。
2段式の固体燃料ロケットで、600ktの核弾頭を1基搭載できる。

手前は後期型のA3で、射程が4600kmに延ばされた。200ktの核弾頭を3基搭載できる。

冷戦時代の象徴としてヨーロッパにも展開したポラリス・シリーズは、1996年(平成8年)に退役した。
ポラリス - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1280×1920 ピクセル, 549 Kbyte)
USSボーフィン潜水艦
USSボーフィン潜水艦
USSボーフィン潜水艦は、1943年(昭和18年)5月に就役したアメリカ海軍の潜水艦で、太平洋戦争中、9回の哨戒任務をこなした。朝鮮戦争でも活躍し、1954年(昭和29年)4月に退役、1986年(昭和61年)には国の歴史建造物に指定され、現在は博物館となっている。
USSボーフィン潜水艦の大きな写真大きな写真
(2560×1707 ピクセル, 1154 Kbyte)
USSアリゾナ記念館
USSアリゾナ記念館へ
VISITOR CENTERで真珠湾攻撃に関する記録映画(日本語字幕・音声はない)を見た後、ボートに乗って USSアリゾナ記念館へ向かう
USSアリゾナ記念館
USSアリゾナ記念館
沈没した戦艦アリゾナを廃棄処分にするかどうか議論が交わされていた1950年代末、アイゼンハワー大統領が記念碑の建設を承認。
USSアリゾナ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1193 ピクセル, 573 Kbyte)
USSアリゾナ記念館
USSアリゾナ記念館
日系人初の上院議員となるダニエル・イノウエや、ミュージシャンのエルヴィス・プレスリーらの寄付が集まり、1962年(昭和37年)5月に完成した。Tree of Lifeと同じアルフレッド・ブレイスがデザインした。
USSアリゾナ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1176 ピクセル, 564 Kbyte)
USSアリゾナ記念館の模型 - PEARL HARBOR VISITOR CENTER
USSアリゾナ記念館の模型
長方形の記念館は長さは56メートルあり、海中のアリゾナと交差して十字架をイメージしている。また、中央部が凹んでいることについてブレイスは、「中央部はたしかにたるんでいるが両端はしっかりと持ち上がっており、最初の敗北と最終的な勝利を表している」と述べている。
USSアリゾナ記念館の模型 - PEARL HARBOR VISITOR CENTERの大きな写真大きな写真
(1920×1261 ピクセル, 535 Kbyte)
USSミズーリ記念館
USSミズーリ記念館
アリゾナと相対するように停泊しているのは、太平洋戦争の降伏文書調印式が行われた戦艦ミズーリである。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(2560×1707 ピクセル, 949 Kbyte)
USSミズーリ記念館
USSミズーリ記念館
大きな写真大きな写真
(3840×1359 ピクセル, 2155 Kbyte)
USSミズーリ記念館
ニミッツ提督の銅像
ビジターセンターから15分間隔で運行しているシャトルバスに乗り、ミズーリ記念館へ向かう。フォード島に渡る手前の橋でセキュリティチェックを受ける。ここからは海軍基地であり、ミズーリ記念館まで写真撮影はできない。

ミズーリ記念館の手前には、太平洋戦争当時、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官であったチェスター・ニミッツ提督の銅像が建っている。
日本ではあまり名が知られていないが、アメリカの英雄であり、原子力空母の名前にもなっている。映画『ファイナル・カウントダウン』では、空母ニミッツが真珠湾攻撃の前日にタイムトラベルする。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1222×1920 ピクセル, 713 Kbyte)
USSミズーリ記念館
ニミッツ提督と東郷平八郎元帥
提督の足下には、日露戦争でバルチック艦隊を打ち負かした際の東郷平八郎提督のパネルがある。ニミッツは東郷のことを尊敬しており、個人的に懇意にしていたという。
終戦後、横須賀で朽ち果てていた戦艦三笠を修復するための募金集めに奔走したり、空襲で焼けた東郷神社の復興に寄付をしている。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1275 ピクセル, 890 Kbyte)
日本軍による真珠湾攻撃を恨んでいるアメリカ人はいるだろうが、こういうパネルを見ると、史実を正しく伝えようとするアメリカ人の合理性が伝わってくる。

アメリカの軍艦は、毎朝8時ちょうど、艦尾に星条旗を掲揚するという習わしがある。この日も、ミズーリ入場口と反対側の海軍基地で星条旗の掲揚が行われており、それを待ってからの入場となった。
USSミズーリ記念館
第一砲塔
真珠湾攻撃も朝8時だったが、米軍の軍楽隊が米国国歌を演奏している最中に、日本軍の爆撃が行われた。だが、軍楽隊は最後まで演奏を続けたという。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(2560×1707 ピクセル, 1068 Kbyte)
USSミズーリ記念館
第一砲塔
ミズーリの主砲は、前方に2基、後方に1基、計9門の16インチ(40.6センチ)砲を搭載する。
砲塔は分厚い装甲に囲まれており、回転や弾倉などの設備が艦内にも達しており、その総重量は3千トン近くにもなる。
人間と比べると、いかに大きいかが分かるだろう。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1379 ピクセル, 684 Kbyte)
USSミズーリ記念館
砲弾と火薬
主砲の砲弾の重量は800~1,225キログラムで、左側に発射火薬の模型が置いてある。射程は37キロメートルにも及ぶ
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1600×1063 ピクセル, 568 Kbyte)
USSミズーリ記念館
第一砲塔
USSミズーリ(BB-63)は、Mighty MoBig Mo の愛称があり、世界で最後に建造され、最後まで現役で使用された戦艦である。
1944年(昭和19年)1月29日に進水、同年6月11日に就役した。サンフランシスコから初出動したのは12月14日で、10日に真珠湾に到着し、空母部隊と合流し、1945年(昭和20年)2月の硫黄島上陸作戦に従軍し、支援艦砲射撃を行った。さらに瀬戸内海沿岸や本州南西部への攻撃を行い、3月、沖縄南東部海岸へ砲撃を行った。5月にグアムで補給を受け、第3艦隊旗艦として沖縄へ向かう。その足で日本本土への攻撃を続けた。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1707×2560 ピクセル, 1030 Kbyte)
USSミズーリ記念館
神風特攻隊
1945年(昭和20年)4月11日、沖縄海戦にて上空約30メートルから1機の零戦がミズーリめがけて特攻し、右舷艦尾付近に激突し、炎上。その時の歪みが今でも残っている。

ミズーリに大きな損害はなく、消火が終わると、上半身だけになったパイロットの遺体が発見された。ウィリアム・キャラハン艦長は、「死亡した日本兵は国を守るために戦った一人の勇敢な人間である」として、米海軍の正式な水葬で葬ることを指示し、海兵たちは夜を徹して旭日旗を縫ったという。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1319×1600 ピクセル, 834 Kbyte)
USSミズーリ記念館
神風特攻隊のパネル
翌日、水葬の儀式が執り行われた。この時の足跡が甲板上に残され、ここが敵味方を越えて戦士を敬った現場であったことを示している。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1272 ピクセル, 896 Kbyte)
USSミズーリ記念館
降伏文書調印式
8月15日の終戦を受け、ミズーリは東京湾に入り、9月2日、第二砲塔脇の右舷01デッキで降伏文書調印式が行われた。
右上の「285」という数字は、湾岸戦争のときに第二砲塔が発射した砲弾数。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1244 ピクセル, 585 Kbyte)
USSミズーリ記念館
USSミズーリ記念館
降伏文書調印式が行われた右舷01デッキの床には、記念プレートが嵌め込まれている。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1644 ピクセル, 766 Kbyte)
USSミズーリ記念館
降伏文書
マッカーサー元帥を始めとする連合軍と、重光葵 (しげみつ まもる) 全権(外務大臣)、参謀総長の梅津美治郎 (よしじろう) 陸軍大将、他総勢11名が日本政府代表として出席。これにより、第二次世界大戦は完全に終結した。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 448 Kbyte)
USSミズーリ記念館
降伏文書
デッキ上には降伏文書の複製が展示されている。
マッカーサーは、かつてペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させていたのと同じ位置にミズーリを停泊したとされている。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1920×1280 ピクセル, 449 Kbyte)
USSミズーリ記念館
古い米国旗
また、調印式の際に掲げられた星条旗は、1853年(嘉永6年)、旗艦サスケハナに掲げられていた古い星条旗である。これもマッカーサの演出だったとされる。
USSミズーリ記念館の大きな写真大きな写真
(1600×1156 ピクセル, 399 Kbyte)
USSミズーリ記念館
艦首へ向かって延びている鎖の先に碇がある。この鎖の1つ1つの重さは50キログラムもあり、碇は15トンである。
ミズーリは、1950年(昭和25年)から1953年の朝鮮戦争でも活躍し、1955年(昭和30年)に退役するが、解体されることなく保存された。
USSミズーリ記念館
クリスマスツリー
ソビエト海軍に対抗するため、アメリカで「600隻艦隊構想」が持ち上がり、ミズーリは近代化装備を施され、1986年(昭和61年)に再就役した。
写真は、そのときに設置された短波用のアンテナタワー、通称クリスマスツリーである。

1991年(平成3年)に湾岸戦争が起きると出動し、主砲を700発以上、トマホークミサイルを28発発射し、イラク軍を沈黙させた。
USSミズーリ記念館
第一砲塔
湾岸戦争のとき、第一砲塔が発射した砲弾数は289。
USSミズーリ記念館
第三砲塔
湾岸戦争のとき、第三砲塔が発射した砲弾数は209。

第3砲塔 - USSミズーリ記念館
第3砲塔
第三砲塔より前方にある直方体をした鉄製の箱が、湾岸戦争の時に威力を見せつけたパトリオットミサイルの発射装置である。
CIWS - USSミズーリ記念館
CIWS
CIWS (シウス) はミサイルや航空機を迎撃する兵器で、1分間に300発を発射できる。湾岸戦争の映像でよく見た。
その格好から、R2D2 という渾名が付いている。
USSミズーリ記念館
バスケットゴール
1991年(平成3年)12月、ハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典に参加するのが最後の任務となった。
冷戦終結による国防予算の削減を受け、莫大な維持費がかかるミズーリは、1992年(平成4年)3月、二度目の退役となった。1999年(平成11年)から、この地で記念館として一般公開されている。

甲板にバスケットゴールがあるところは、いかにもアメリカらしい。
第3砲塔 - USSミズーリ記念館
第3砲塔
USSミズーリ記念館
館内通路
ミズーリの全長はジャンボジェット機4機分にあたる270.4メートル。最大幅はパナマ運河を航行できるギリギリの33メートル。高さは20階建てのビルと同じ63.9メートルある。ともかく大きい。満載時排水量は5万3千トン。最大速力は、戦艦最速の33ノット(約61km/h)を誇る。

だが、艦内は狭い。
USSミズーリ記念館
乗組員のベッド
太平洋戦争時の乗組員は2500人。

乗組員のベッドは写真のよう。ブルートレインよりは広そうだが、これで何ヶ月も作戦行動を続けるのは大変なことだったろう。
USSミズーリ記念館
厨房
ミズーリ州選手の上院議員トルーマン(のちの大統領)の娘マーガレット・トルーマンにより、ミズーリと命名された。マーガレットは、ミズーリの食堂で海兵たちとともに食事をするなど気さくな女性で、調理場は「TRUMAN LINE」と名付けられた。
USSミズーリ記念館
BIG MO SNACK SHOP
スナックコーナー「BIG MO SNACK SHOP」――Big Mo はミズーリの愛称だ。
USSミズーリ記念館
艦内


USSミズーリ記念館
艦内
第二次世界大戦時に軍需分野に進出したハネウェルのパソコンが並んでいる。
USSミズーリ記念館
艦内


USSミズーリ記念館
艦内


USSミズーリ記念館
国連旗


USSミズーリ記念館
艦内


USSミズーリ記念館
艦橋へ


USSミズーリ記念館
艦橋へ


USSミズーリ記念館
艦橋


USSミズーリ記念館
レーダー


USSミズーリ記念館
艦長席
艦長席。

USSミズーリ記念館
艦橋からアリゾナ記念館を望む
ミズーリの艦橋からアリゾナ記念館が見えるが、海中にあるアリゾナはミズーリと相対している。これは、太平洋戦争の始まりの船アリゾナと、戦争を終わらせた船ミズーリを並べることで鎮魂と平和への祈りの意味を持たせているというが、戦後世代の私たちにとってミズーリは、湾岸戦争以降の新たな紛争時代の幕開けを告げた戦艦という印象がある。

PEARL HARBOR VISITOR CENTER
PEARL HARBOR VISITOR CENTER
太平洋戦争の始まりの戦艦アリゾナと、戦争を終わらせ、そして湾岸戦争から始まる新たな時代の戦争に従軍した戦艦ミズーリを見たわけだが、真珠湾は今も海軍基地として機能しており、日本国内で見る戦争遺物とは別の意味で、問題を突きつけられたような気がする。

この日は朝から雨が降ったりやんだりで、真珠湾に虹がかかった。まずは、平和な時代に生まれてきたよかった――。

周辺地図

近隣の情報

参考サイト

(この項おわり)
header