2世紀後半から4世紀の世界
2世紀後半、西にローマ帝国があり、東にパルティア(アルケサス朝パルティア)、クシャーナ朝、そして後漢という大国がユーラシア大陸を東西に結んでおり、交易が盛んになった。
ところが、3世紀初頭から気候が寒冷化し、疫病が流行したことなどの要因で、遊牧民族の大移動が始まる。南への移動は後漢を直撃し、220年に滅亡する。
ゲルマン民族などは西へ移動し、395年にローマ帝国は東西に分裂。オリエントの豊かな穀倉地帯を難攻不落のコンスタンティノープルで守り切った東ローマ帝国は存続するが、穀倉地帯を持たず財政基盤が弱かった西ローマ帝国は476年に滅亡してしまう。
また、確実な記録はないものの、248年に卑弥呼が死去すると日本国内も混乱したとされている。
ところが、3世紀初頭から気候が寒冷化し、疫病が流行したことなどの要因で、遊牧民族の大移動が始まる。南への移動は後漢を直撃し、220年に滅亡する。
ゲルマン民族などは西へ移動し、395年にローマ帝国は東西に分裂。オリエントの豊かな穀倉地帯を難攻不落のコンスタンティノープルで守り切った東ローマ帝国は存続するが、穀倉地帯を持たず財政基盤が弱かった西ローマ帝国は476年に滅亡してしまう。
また、確実な記録はないものの、248年に卑弥呼が死去すると日本国内も混乱したとされている。
この時代の世界
(この項おわり)
後漢時代は若い皇帝が相次いで即位し、政治の実権は外戚が握っていた。賄賂政治が横行して、国民の不満がつのっていった。
184年、張角を首領とした黄巾の乱が起き、全国に広がった。これをきっかけに後漢は衰退、220年に滅亡し、三国時代へ突入する。