天皇も律令政治に慣れはじめ (701)

藤原不比等
藤原不比等は藤原鎌足の次男で、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ首皇子(のちの聖武天皇)を産む。また、娘の光明子を聖武天皇に嫁がせ皇后(光明皇后)とし、政権を握る。皇族以外から嫁いだ初めての皇后である。

不比等の四人の息子、武智麻呂は藤原南家を、房前は藤原北家を、宇合は藤原式家を、麻呂は藤原京家をそれぞれ開いた。四兄弟は天然痘にかかり、737年(天平9年)に相次いで死没するが、北家は平安時代を通じて摂政・関白の地位を受け継ぐなど栄えることになる。

645年、大化の改新からはじまった元号制度は、650年に改元し白雉となるが、654年から701年まで、天皇体制が揺らぎ、元号が定められない空白期間となった。天武天皇は686年8月、朱鳥を定めるが、その1ヵ月後に崩御してしまい、再び元号の空白期間となった。
対馬国から金が献上されたことを慶び、文武天皇は701年、元号を「大宝」に定めた。これが、大宝律令の名前の由来である。後年、この金は輸入品だったことが分かるが、元号は変わらず、この後は空白期間が発生することもなくなった。

不比等の四人の息子、武智麻呂は藤原南家を、房前は藤原北家を、宇合は藤原式家を、麻呂は藤原京家をそれぞれ開いた。四兄弟は天然痘にかかり、737年(天平9年)に相次いで死没するが、北家は平安時代を通じて摂政・関白の地位を受け継ぐなど栄えることになる。

645年、大化の改新からはじまった元号制度は、650年に改元し白雉となるが、654年から701年まで、天皇体制が揺らぎ、元号が定められない空白期間となった。天武天皇は686年8月、朱鳥を定めるが、その1ヵ月後に崩御してしまい、再び元号の空白期間となった。
対馬国から金が献上されたことを慶び、文武天皇は701年、元号を「大宝」に定めた。これが、大宝律令の名前の由来である。後年、この金は輸入品だったことが分かるが、元号は変わらず、この後は空白期間が発生することもなくなった。
この時代の世界
(この項おわり)
刑部親王、藤原不比等らが編纂したもので、日本で初めて律(刑罰法令)と令(律以外の法令、主に行政法)が整備された本格的な律令である。文書は現存しない。