西暦694年 - 藤原京に遷都

日本史上初の都城
藤原京
694年、持統天皇 (じとうてんのう) 藤原京に遷都する。これは単なる都市移転ではなく、律令国家の形成を目指す政治改革の一環であった。
藤原京は史上初の都城で、5.3キロ四方の規模、少なくとも25平方キロはあったと推定されている。これは平城京(23平方キロ)や平安京(24平方キロ)より広い。
その背景には、7世紀後半の大きな政治的変動がある。
645年の大化の改新によって蘇我氏の専横が終わり、天皇中心の国家体制を整える改革が始まった。その後、中央集権国家の制度整備が進められたが、当時の都は恒久的な都市ではなく、天皇の代替わりごとに移動する宮都が一般的であった。

しかし7世紀後半になると、国家運営には官僚制度や行政機構を安定して置く拠点が必要となった。さらに663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことで、国防体制の整備と国家統治の強化が急務となった。こうした状況の中で、中国の制度を参考にした律令国家の構築が進められていった。

持統天皇は天武天皇の皇后であり、672年の壬申の乱 (じんしんのらん) で天武側の勝利に大きく関わった人物である。天武天皇は天皇権力の強化と律令国家の形成を目指したが、その途中で崩御したため、持統天皇がその政策を継承した。持統天皇の政治の大きな目的は、天武系皇統の安定と律令国家体制の完成であった。その象徴的事業が藤原京の建設である。
藤原京は現在の奈良県橿原市周辺に建設された計画都市で、中国の長安城にならった条坊制を採用した。碁盤目状の道路が整備され、北部には宮城である藤原宮が置かれた。これは日本で初めての本格的な都城であり、国家の行政機構を一箇所に集める意図を持っていた。

694年、持統天皇は飛鳥の宮から藤原京へ遷都した。
この遷都は、律令国家の象徴としての首都を整備するとともに、政治権力を天皇のもとに集中させる意味を持っていた。また、皇太子であった草壁皇子 (くさかべのみこ) の死後、その子である文武天皇へ皇位を安定して継承させるための政治的基盤を整える目的もあったと考えられている。

藤原京はその後、文武天皇や元明天皇の時代まで日本の都として機能した。しかし律令国家の完成に伴い、より大規模な都城が必要とされるようになり、710年(和銅3年)には平城京遷都が行われた。これにより藤原京は都としての役割を終えた。

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目的地:藤原京跡

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