西暦1404年 - 日明貿易はじまる

勘合貿易、1549年まで続く
永楽通宝
永楽通宝
1404年(応永11年)、明の永楽帝から日本国王に封じられた足利義満は、遣明船による日明貿易を開始する。

明は貿易統制のため、他国との自由な渡航・交易を禁止しており、朝貢国に対して勘合符を発行し、それを所持した船のみ交易を認めた。
14世紀後半、日本人を中心とする倭寇 (わこう) と呼ばれる海賊が、朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回っていた。倭寇は、数百隻で行動することがあること、装備が充実していることから、南朝が物資調達のために利用していたという説がある。

高麗の武将、李成桂 (りせいけい) (イ・ソンゲ)は倭寇討伐で功績を挙げたが、クーデターを起こし、1392年(元中9年)、高麗王に即位した。李氏朝鮮のはじまりである。
一方、南北朝を統一して国政を安定させた足利義満も、明からの要請を受け、倭寇を討伐した。こうして1380年代には倭寇の活動は減少した。

1401年(応永8年)5月、足利義満は僧の祖阿 (そあ) を正使として、博多商人の肥富 (こいつみ) を副使とする使節に金1000両、馬10頭などを持たせて明に派遣し、正式に交易を求めた。翌年、明からの国書をもたらした。
1403年(応永10年)、堅中圭密 (けんちゅうけいみつ) が正使となって明に派遣され、1404年(応永11年)、明史が同行し、永楽帝の勘合と「日本国王之印」と刻した金印を義満に与えた。こうして日明貿易が始まった。

1410年(応永17年)まで毎年のように交易船の行き来があったが、足利義持の時代に一時的に明と断交。1432年(永享4年)、足利義教 (あしかが よしのり) の時代に復活した。
日明貿易は、室町幕府に加え、山名、大内、細川、斯波などの守護大名、天竜寺、相国寺 (しょうこくじ) 大乗院 (だいじょういん) などの寺院が行った。遣明船がもたらす利益は莫大なものだった。
応仁の乱がはじまると、大内氏と細川氏が経営をめぐって激しく争うようになり、1523年(大永3年)、寧波の乱が起き、経営権は大内氏が握るようになった。しかし、大内氏の内紛がもとで、明は日明貿易を拒絶した。1549年(天文18年)に大内氏が派遣した遣明船が最後の日明貿易となった。

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