
1493年(明応2年)、堀越公方の後継者争いの情報を掴んだ北条早雲は、堀越公方・足利政知の子・茶々丸(11代将軍足利義澄の異母兄)を殺害し、伊豆を奪った。今川氏の家臣という身分にあった武将が一国を奪ったことから、これが戦国時代の下剋上のはじまりとされている。
北条早雲の出自、生年は定かではないが、室町幕府の政所執事を務めた名門京都伊勢氏の一族だったという説がある。備中にいた伊勢新九郎盛時という人物が北条早雲だと考えられている。北条氏を名乗るようになるのは、早雲の嫡男・北条氏綱からである。
伊勢新九郎盛時は、1483年(文明15年)、9代将軍・足利義尚の申次衆に任命され、1487年(文明19年)に奉公衆となった。
間もなく早雲は駿河へ下り、今川氏の後継者争いを仲裁した。このことにより、伊豆との国境に近い興国寺城に所領(現在の沼津市)を与えられた。

北条早雲は、伊豆を平定すると、さらに東へ向かい、1495年(明応4年)、大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。早雲の嫡男・北条氏綱は小田原城を拠点とし、戦国大名・北条5代の居城となる。
1516年(永正13年)、相模を平定すると、死没する。
伊勢新九郎盛時は、1483年(文明15年)、9代将軍・足利義尚の申次衆に任命され、1487年(文明19年)に奉公衆となった。
間もなく早雲は駿河へ下り、今川氏の後継者争いを仲裁した。このことにより、伊豆との国境に近い興国寺城に所領(現在の沼津市)を与えられた。

北条早雲は、伊豆を平定すると、さらに東へ向かい、1495年(明応4年)、大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。早雲の嫡男・北条氏綱は小田原城を拠点とし、戦国大名・北条5代の居城となる。
1516年(永正13年)、相模を平定すると、死没する。
この時代の世界
(この項おわり)