
イスマーイール1世

ウズン・ハサン
サファヴィー教団は神秘主義教団として、イラン北西部のカスピ海沿岸に拠点を置いていた。白羊朝の君主ウズン・ハサンはサファヴィー教団と同盟を結ぼうと、娘アーラム・シャオを教主シャイフ・ハイダルに嫁がせた。1487年、2人に間にイスマーイールが生まれる。
しかし、教団の影響力を恐れたウズン・ハサンはサファヴィー教団を攻撃し、教主一族は次々に落命。イスマーイールはわずか7歳で教主の地位に就き、カスピ海南岸に潜伏した。
しかし、教団の影響力を恐れたウズン・ハサンはサファヴィー教団を攻撃し、教主一族は次々に落命。イスマーイールはわずか7歳で教主の地位に就き、カスピ海南岸に潜伏した。

キジルバシ
1499年、白羊朝が不安定になると、イスマーイールは挙兵し、アナトリア半島各地の信者に決起を促し、エルズィンジャンに7千人の信者(キジルバシと呼ばれるトルコ系遊牧民の信者)を集めた。教主イスマーイールを無謬の救世主と崇め、忠誠を誓ったサファヴィー教団は難なく白羊朝の首都であるタブリーズに入城した。

タブリーズのブルーモスク
イスマーイールはシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言した。当時のタブリーズの住人の3分の2はスンナ派だったが、イスマーイールの決意は固かった。
イスマーイールは、古代イランから王都意味するシャーの称号を名乗り、キジルバシの有力者を地方長官に任じ、行政官僚には白羊朝のイラン人貴族を登用した。
1508年、イスマーイールは最後に残った白羊朝の君主ムラードを倒しバグダードを制圧。白羊朝が滅亡する。
イスマーイールは、古代イランから王都意味するシャーの称号を名乗り、キジルバシの有力者を地方長官に任じ、行政官僚には白羊朝のイラン人貴族を登用した。
1508年、イスマーイールは最後に残った白羊朝の君主ムラードを倒しバグダードを制圧。白羊朝が滅亡する。

チャルディラーンの戦い
1514年、セリム1世が率いるオスマン帝国とサファヴィー朝は、アナトリア東部のチャルディラーンの平原で激突する(チャルディラーンの戦い)。オスマン軍は大砲をはじめとする火器を装備しており、騎兵を中心とするサファヴィー軍は敗退する。

カール5世
この敗戦によりイスマーイールの無謬性は失われ、彼は軍事行動を控え、次第に宮殿内に引き籠もることが増えていった。
イスマーイールはヨーロッパ諸国と同盟してオスマン帝国を挟撃することを画策したが、当時のヨー立派な宗教改革の嵐が吹き荒れ、それどころではなかった。
イスマーイールはヨーロッパ諸国と同盟してオスマン帝国を挟撃することを画策したが、当時のヨー立派な宗教改革の嵐が吹き荒れ、それどころではなかった。

タフマースブ1世
この時代の世界
(この項おわり)
ペルシアを支配した王朝としては、初めてシーア派の一派である十二イマーム派を国教としている。
ロシアの南下によって滅ぶ1736年まで続き、現在のイランとアゼルバイジャン、イラク南部で十二イマーム派が住民の大多数を占めているのは、サファヴィー朝の影響である。