西暦1637年 - 島原の乱

キリシタンの反乱
原城にある天草四郎像
寛永14年10月25日(新暦では1637年(寛永14年)12月11日)、島原の乱が勃発する。
島原の乱は、単なるキリシタンの反乱や農民一揆ではなく、武士によって組織された大規模な反乱であった。

島原藩が支配する肥前 (ひぜん) (現在の長崎県)島原は、キリシタン大名・有馬晴信 (ありまはるのぶ) の所領で、領民のキリスト教信仰が盛んであった。だが、岡本大八事件に絡んで晴信は徳川家康の逆鱗をかい、追放のうえ死罪となる。
代わって松倉重政が治めるようになると、領民に重い年貢を課し、キリシタンを迫害するようになる。
唐津藩の飛地・肥後 (びんご) 天草諸島は、もともとは豊臣秀吉配下のキリシタン大名・小西行長 (こにしゆきなが) の領地であった。関ヶ原の戦いで行長は西軍の将として奮闘するが敗北、死罪となる。
代わって寺沢広高が治めるようになると、島原同様、重い年貢とキリシタン弾圧が行われた。
ここに飢饉の被害が加わり、ついに両藩に対する反乱(一揆)が勃発する。これが島原の乱である。

一揆を主導していたのは、有馬晴信や小西行長の家臣で浪人となっていた者たちであった。彼らはキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた16歳の少年、天草四郎時貞 (あまくさしろうときさだ) を総大将とする反乱軍を組織した。その数、3万数千人。ここには、農民やキリシタンばかりでなく、搾取されていた多くの領民や浪人たちも参加していた。

当初、反乱軍が優位にあったため、幕府は鎮圧のために5万の討伐軍を繰り出した。しかし死を恐れぬキリシタンたちを降伏させることは容易ではなかった。幕府はさらに7万の援軍を送り、海からはオランダ船に大砲を撃たせた。反乱軍は、有馬家の居城であった廃城・原城址に籠城することになる。
そして4ヶ月後、原城の兵糧が尽きたところで討伐軍による総攻撃がはじまる。原城では女子どもまでが皆殺しにされたという。

この戦いによって島原と天草のキリシタンはほぼ根絶やしにされ、わずかに残った信者たちは隠れキリシタンとして潜伏してゆく。
一方の幕府はキリスト教の取り締まりを厳格にし、すべての人民が寺の檀家に入るようにした。これを「寺請制度 (てらうけせいど) 」という。寺の檀家であればキリスト教徒ではないということになる。こうして鎖国が完成していく。

また、反乱を招いたとして、島原藩主・松倉勝家 (まつくらかついえ) は改易のうえ死罪、唐津藩主・寺沢堅高 (てらざわかたたか) は領地没収となった。

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(この項おわり)
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