西暦1632年 - 「天文対話」出版

ガリレオは異端とされる
『天文対話』
『天文対話』
1632 年 2 月 22 日、イタリアの物理学者で天文学者のガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)が『天文対話』を出版する。正式な原題は「二つの宇宙体系すなわちプトレマイオスとコペルニクス説に関する対話」。

地動説を支持する者、天動説を信ずる者、良識的市民の 3 人が 4 日間にわたって議論を交わすという問答形式で構成されており、話の中から地動説の正しさが明らかにされていく。論文ではなく平易なイタリア語で書かれていたので、広く普及した。
ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ自身は、オランダで発明された望遠鏡の噂を聞き、1609 年、天体望遠鏡を自作する。これを使い、1610 年に木星の衛星や月のクレーター、太陽の黒点を発見し、天体が完全な球体でないことを知る。
ガリレオの望遠鏡
ガリレオの望遠鏡
こうした観測結果をもとに地動説を唱えるが、ドミニコ会修道士ロリーニと論争になる。
1616 年、異端審問所審査で、ローマ教皇庁より注意を受ける。この時、コペルニクスの『天球の回転について』の出版が一時停止されるが、こちらは純粋な数学論文という解釈で、禁書は免れた。

注意処分にもかかわらずガリレオは『天文対話』を出版し、今度は異端審問所審査で終身刑を言い渡された(後に軟禁刑に減刑)。『天文対話』は禁書となり、この審問結果に屈したガリレオは「それでも地球は回っている」とつぶやいたと伝えられている。
月のスケッチ
月のスケッチ
その後、ガリレオは両眼を失明するが、振り子時計を発明するなど、1642 年に 78 歳で没するまで研究意欲は衰えなかった。

1737 年にガリレオの遺体がフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂に埋葬される際、崇拝者らにより指や歯が切り取られ、持ち去られていた。長い間行方知れずになっていたが、コレクターにより再発見された。

ガリレオによる海王星の記録

1612 年 12 月 28 日、ガリレオは木星の観測記録中に偶然に海王星を記録していた。
しかし、新しい惑星を発見したとは考えていなかったようだ。

正式に“海王星が発見”されるのは、それから 254 年後の 1846 年のことである。

地動説の歴史

太陽系
太陽系
地動説は、1543 年、コペルニクスの『天球の回転について』によって唱えられたことになっているが、歴史的経緯は少し違う。
たとえば、古代ギリシアの天文学者アリスタルコス(B.C.310~B.C.230頃)は、宇宙の中心に太陽があり、地球を含むすべての天体がその周りを公転しているという太陽中心説を唱えた。アリスタルコスは、恒星が無限の彼方にあるため、公転による視差が観測できない理由とした。
レギオモンタヌス
レギオモンタヌス
天球の回転について』が発刊されたのはドイツのニュルンベルクであったが、その 70 年ほど前の 1474 年、同じニュルンベルクに天文台兼印刷所を構えていたレギオモンタヌスは、高精度の三角関数表を発刊しており、地動説とは関係なく、独自の計算によって向こう 30 年間の日食・月食、惑星の位置を予報した『天体位置表』を発刊した。
デューラー星図
デューラー星図
また、ニュルンベルクで活躍していた画家のデューラーは、1515 年、世界初の星図を発刊した。

ことによると、コペルニクスはニュルンベルクから地動説に関する情報を仕入れており、それを考察して『天球の回転について』を書いたのかもしれない。コペルニクス自身が精密な天体観測をしたという記録は残っていない。
ウラニボリ天文台
ウラニボリ天文台
また、レギオモンタヌスから 100 年後、当時世界最高精度の天文台を構えていたデンマークの天文学者ティコ・ブラーエも、年周視差を発見することはできていない。

なお、『天球の回転について』の出版前からローマ教皇クレメンス 7 世はコペルニクスの地動説を聞き知っていた。メディチ家の出身で、システィーナ礼拝堂の大壁画をミケランジェロに発注したり、マキャベリに執筆依頼をする開明的な教皇は、地動説を迫害しなかった。
異端審問を受けるガリレオ
異端審問を受けるガリレオ
しかし、1616 年、ガリレオか地動説を唱えると、『天球の回転について』は出版停止となる。カトリック教会が地動説を禁じたというより、ガリレオはメディチ家の庇護を受けていたが、反メディチのドミニコ会と衝突したのである。鬼籍にあるコペルニクスは、いい迷惑だったろう。
アイザック・ニュートン
アイザック・ニュートン
1619 年、ティコ・ブラーエの観測記録を解析していたヨハネス・ケプラーは「ケプラーの法則」と呼ばれる 3 つの経験則を発見する。
1666 年、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見し、ケプラーの法則を理論的に補強した。

18 世紀に入ると、地動説は揺るぎないものとなっており、1769 年、金星の太陽面通過を観測することで、地球と太陽の距離を計算しようと、英国王立協会は天文学者をハイチへ派遣した。彼を現地へ送り届けたのが、後に太平洋探検で名を馳せるクック船長である。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル
地動説の決定的証拠が見つかるのは、ニュートンが亡くなって 100 年以上経ってから。1838 年、ニュルンベルクの 400km 北にあるケーニスベルクの天文台でのこと。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは、アリスタルコスが匙を投げた恒星の年周視差を観測したのである。

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参考書籍

表紙 ガリレオ 星空を「宇宙」に変えた科学者
著者 フィリップ・スティール/赤尾秀子
出版社 BL出版
サイズ 全集・双書
発売日 2009年07月
価格 1,944円(税込)
rakuten
ISBN 9784776403517
 
表紙 天文対話(上)
著者 ガリレオ・ガリレイ/青木靖三
出版社 岩波書店
サイズ 文庫
発売日 1993年09月
価格 864円(税込)
rakuten
ISBN 9784003390610
コペルニクス体系の基礎を解明し、同時に新しい科学方法論を確立した不朽の名著。地動説論証のためにガリレイが直面しなければならなかったさまざまなスコラ学体系の難関・障壁と、それがいかにして突破されたかが如実に示されている。近代科学の黎明を告げる大著であり、科学革命の宣言書である。
 
表紙 天文対話(下)
著者 ガリレオ・ガリレイ/青木靖三
出版社 岩波書店
サイズ 文庫
発売日 1989年08月
価格 712円(税込)
rakuten
ISBN 9784003390627
本書の公刊は1632年。今日でこそ地動説は不動の真理として認められているが、ガリレイの生きた時代にあってはコペルニクス体系を支持することは容易なことでなく、この本を書いたためガリレイは異端審問にかけられた。しかし、地球の運動の証明に捧げられた本書は、新しい科学の方法論を確立した科学史上の古典として遺された。
 
(この項おわり)
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