西暦1648年 - ウェストファリア条約/フロンドの乱

三十年戦争の終結

ウェストファリア条約

ウェストファリア条約締結の図
1648年10月、ドイツのミュンスターでウェストファリア条約が締結された。神聖ローマ皇帝、ドイツの66の諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどの代表が参加する世界最初の国際会議であった。会議は1945年から討議に入り、結論を出すまで3年を要した。
ウェストファリア条約より神聖ローマ帝国皇帝の権力と領土は制限され、ハプスブルク家が弱体化することで三十年戦争が終結した。また、カトリックとプロテスタントの権限も同格となった。
ドイツの約300ある諸侯は独立した主権国家となり、神聖ローマ帝国は実質的に解体された。
また、1555年のアウクスブルクの和議が再確認され、新教徒やカルヴァン派の信仰が認められ、宗教戦争に終止符が打たれた。

また、フランスはアルザス=ロレーヌ地方を獲得し、スイスとネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の独立が承認された。
ちなみに、ウィリアム・テルの物語は、オーストリア・ハプスブルク家に支配されていたスイスの独立運動にまつわる伝説である。

ただし、ルイ14世統治下のフランスとフェリペ4世統治下のスペインの間の戦争は続いており、両者の講話は1659年のピレネー条約を待つことになる。

フロンドの乱

フロンドの乱
フランスのルイ14世と宰相マザランは、三十年戦争を継続するために重税を課したことに不満をもった貴族や民衆が、1648年8月、蜂起した。
フロンドというのは子供の投石玩具のことだが、パリ市民がマザラン邸に投石したことから「フロンドの乱」と呼ばれるようになった。
しかし、反乱側の足並みがそろわず、マザランの巧みな対応が功を奏し、1653年に鎮圧された。その結果、王権のさらなる強化と中央集権化が進み、ルイ14世時代のフランス絶対王政の全盛期をもたらした。フロンドの乱は、フランスにおける貴族の最後の反乱となった。

1643年、わずか5歳のルイ14世が即位する。政治の実権は、摂政となった母后アンヌ・ドートリッシュと宰相マザランが握った。
マザランは、ウェストファリア条約でアルザスを獲得するなどの成功を収めたが、前代のリシュリューに続き、国王の寵臣が強い権力を持つことに対して貴族たちの反発が強まっていった。
貴族たちは、既得権の一つであった高等法院の法官が、貴族以外の市民から採用されていることにも反発していた。また都市の市民層や農民には、うち続く戦争の戦費を捻出するための重税に対する不満が強まっていた。
マザランが、財政危機克服のため、高等法院法官の俸給の4年間据え置きを発表すると、法官たちの反対運動がおこった。1643年、政府が法官を逮捕に踏み切ると、重税政策に反発していたパリ市民が蜂起し、市内各所にバリケードを築いた。こうして「高等法院のフロンド」が始まった。
マザランが、三十年戦争で軍功のあった大貴族コンデ公を抱き込み、コンデ公の軍隊がパリを包囲した結果、高等法院も妥協して、1649年に鎮圧された。

だが、コンデ公が恩賞が少ないことに腹を立て、多くの貴族を巻き込み1650年に王室に反旗を翻した。「貴族のフロンド」である。反乱軍はパリを占拠し、農民の反乱は全国に広がった。
ルイ14世と摂政アンヌはパリを離れ、マザランはドイツに亡命した。
国王側は三十年戦争の将軍ティレンヌを味方のし、1652年にパリ郊外で決戦が行われた。コンデ公が勝利するものの、スペインに援軍要請したことがパリ民衆の反感を買い、反乱は尻すぼみとなり、1652年9月、コンデ公がパリを蜂起して亡命したことで、貴族のフロンドは終わりを告げる。

ルイ14世とマザランはパリに帰還するが、フランス南部のボルドーでは民衆の反乱が続いていた。「民衆のフロンド」である。
国王軍はボルドーを包囲し、1653年7月、反乱の中核となっていた楡の木同盟を解体へと追い込む。こうしてフロンドの乱は鎮圧された。

フロンドの乱は、フランスにおける貴族による最後の反乱となった。民衆による革命の機は熟しておらず、130年後のフランス革命を待たねばならなかった。

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