
松平定信
ちなみに、老中に就く前、松平定信は陸奥白河藩主であった。藩政に尽力し、天明の大飢饉の際には藩内で餓死者を出さなかったという。
まず、旗本・御家人などを救済するため、債権者である札差に対し、6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じる棄捐令を発した。
また、諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に社倉・義倉を築かせ、穀物の備蓄を命じる囲米の制を命じた。
朱子学は、江戸幕府が開かれた当初は重んじられたが、次第に実学が学ばれるようになっていった。そこで、定信は朱子学を幕府公認の学問と定め、農業を重視し、身分・秩序を重んじる考え方を復興させようとした。

しかし、これらの厳しい命令が矢継ぎ早に出されたため、定信は民衆に嫌われ、1793年(寛政5年) 老中の座を追われる。このときをもって、寛政の改革は終わったとされている。

寛政の改革の際、火付盗賊改役にあった長谷川宣以(平蔵)は、犯罪者の更生施設である人足寄場を石川島に設立することを提案した。そこで上司である松平定信に予算の増額を要求するのだが受け入れられず、幕府から阿須かっら資金を銭相場に投じるという荒技で資金を確保した。
また、諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に社倉・義倉を築かせ、穀物の備蓄を命じる囲米の制を命じた。
朱子学は、江戸幕府が開かれた当初は重んじられたが、次第に実学が学ばれるようになっていった。そこで、定信は朱子学を幕府公認の学問と定め、農業を重視し、身分・秩序を重んじる考え方を復興させようとした。

しかし、これらの厳しい命令が矢継ぎ早に出されたため、定信は民衆に嫌われ、1793年(寛政5年) 老中の座を追われる。このときをもって、寛政の改革は終わったとされている。

寛政の改革の際、火付盗賊改役にあった長谷川宣以(平蔵)は、犯罪者の更生施設である人足寄場を石川島に設立することを提案した。そこで上司である松平定信に予算の増額を要求するのだが受け入れられず、幕府から阿須かっら資金を銭相場に投じるという荒技で資金を確保した。
江戸時代の三大改革
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
松平定信は、田沼時代の行き過ぎた重商政策によって傾いた財政の立て直しを図るため、祖父に当たる8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に倣い、倹約令を発布し、寛政の改革を断行する。