
水野忠邦
1841年(天保11年)閏1月、大御所となっていた徳川家斉の死去を契機に、老中首座の水野忠邦は、家斉の旧側近を罷免し、遠山景元、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門などを登用し、天保の改革に着手した。
水野忠邦は、徳川第11代将軍・家斉のもとで頭角をあらわし、1837年(天保7年)4月に徳川家慶が第12代将軍に就任すると勝手御用掛を兼ね、1839年(天保9年)12月6日、老中首座に昇格した。

水野忠邦は、異国船が日本近海に相次いで出没するという外的脅威を受ける一方で、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱などの内的脅威が重なる中、放漫な財政に打つ手を見出せない幕藩体制に強い危機感を抱いていた。そこで、家斉の死去をきっかけに、改革に着手した。享保の改革、寛政の改革と並び、重農主義・質素倹約を旨とする内容であった。

貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そこで、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとする人返し令を命じた。
また、高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとした。
金利の引き下げや貨幣の改鋳を行い、財政は急速に回復したかに見えた。
しかし、享保・寛政時代への復古を目指そうとした改革は時代にそぐわず、大奥の反対を招いた。結局、天保の改革は失敗し、水野忠邦は1843年(天保13年)閏9月に老中を罷免される。

ちなみに、農政家として有名な二宮尊徳(金二郎)は、1842年(天保12年)、水野忠邦に認められ、幕臣として登用されている。

水野によって江戸北町奉行に抜擢された“遠山の金さん”こと遠山影元は、改革の方針を巡って鳥居耀蔵と対立。一時、鳥居の謀略により閑職に追いやられるが、南町奉行として返り咲き、水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用され、幕府の中枢にあり続けた。
一方の“蝮の耀蔵”こと鳥居耀蔵は、水野が失脚する前に反対の姿勢を示し、何とか幕府無いに踏みとどまった。しかし水野が再び老中の地位に就くやいなや解任。鳥居はは明治維新の際に恩赦を受けるまでの20年間以上、お預けの身として軟禁状態に置かれることになる。

水野忠邦は、異国船が日本近海に相次いで出没するという外的脅威を受ける一方で、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱などの内的脅威が重なる中、放漫な財政に打つ手を見出せない幕藩体制に強い危機感を抱いていた。そこで、家斉の死去をきっかけに、改革に着手した。享保の改革、寛政の改革と並び、重農主義・質素倹約を旨とする内容であった。

貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そこで、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとする人返し令を命じた。
また、高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとした。
金利の引き下げや貨幣の改鋳を行い、財政は急速に回復したかに見えた。
しかし、享保・寛政時代への復古を目指そうとした改革は時代にそぐわず、大奥の反対を招いた。結局、天保の改革は失敗し、水野忠邦は1843年(天保13年)閏9月に老中を罷免される。

ちなみに、農政家として有名な二宮尊徳(金二郎)は、1842年(天保12年)、水野忠邦に認められ、幕臣として登用されている。

水野によって江戸北町奉行に抜擢された“遠山の金さん”こと遠山影元は、改革の方針を巡って鳥居耀蔵と対立。一時、鳥居の謀略により閑職に追いやられるが、南町奉行として返り咲き、水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用され、幕府の中枢にあり続けた。
一方の“蝮の耀蔵”こと鳥居耀蔵は、水野が失脚する前に反対の姿勢を示し、何とか幕府無いに踏みとどまった。しかし水野が再び老中の地位に就くやいなや解任。鳥居はは明治維新の際に恩赦を受けるまでの20年間以上、お預けの身として軟禁状態に置かれることになる。
江戸時代の三大改革
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)