西暦1945年 - ヤルタ会談・国際連合が発足

第二次大戦後の国際的平和維持組織

国際連合が発足

国際連合旗
1945年10月24日、国際憲連合章が発効した。この日をもって国際連合(国連,United Nations,UN)が成立したとする。この日を記念し、毎年10月24日は国連デーとなっている。
国連本部
国連本部
第二次世界大戦末期の1943年10月、モスクワにアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の外務大臣が集まり、「一般的安全保障に関する四ヵ国宣言」を発表した。この中で国際連盟という組織では大戦を防げなかったことなどの反省を行い、あらたな国際平和の維持活動を行う機関の創設を宣言した。
国連総会
国連総会
この頃すでに United Nations という用語が使われていたが、これは、第二次世界大戦における「連合国」と同じ綴りである。
四ヵ国宣言を受け、1944年8月から10月にかけ、アメリカ合衆国、イギリス、中華民国、ソビエト連邦の代表がワシントンD.C.でダンバートン・オークス会議を開き、国際連合憲章の原案となる「一般的国際機構設立に関する提案」を作成した。
1945年4月25日から6月26日にかけ、ドイツや日本に宣戦している連合国50ヵ国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開いた。会議では、ダンバートン・オークス会議で作成された国際連合憲章原案に基づいて国際連合憲章が採択された。最初の加盟国(原加盟国)は51ヵ国で、ニューヨークに本部を置いた。
サンフランシスコ会議の開催に尽力したアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、会議開催の2週間前に他界した。
日本への原爆投下にサインした副大統領トルーマンは、第33代アメリカ合衆国大統領に昇格し、国際連合の設立や、その後の東西冷戦、国内では公民権運動の高まりに対処するなど、多忙な日々を送る。

国際連合は、1946年まで存在した国際連盟との間には法的な継続性はないものの、国際司法裁判所や国際労働機関等の機関を連盟から引き継いでいる。また、旧連盟本部施設も連盟から移管されていて部分的には継続した組織といえる。

1952年のサンフランシスコ講和条約で主権を回復した日本は、翌1953年に国際連合への加盟が認められる。

国際連合憲章・前文

われら連合国の人民は、 われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

ヤルタ会談

ヤルタ会談
1945年2月3日から11日かけ、クリミア半島南端に位置し黒海に臨むヤルタ(ソ連)にあるニコライ2世の別荘リヴァディア宮殿で、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理を決めるヤルタ会談が行われた。
アメリカからはフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスからはウィンストン・チャーチル首相、ソ連からはヨシフ・スターリン書記長が参加した。当時、ルーズベルトは大国としての余裕からスターリンに理解を示していたが、チャーチルとスターリンの関係はすこぶる悪かった。
ダンバートン・オークス会議で暗礁に乗り上げていた拒否権問題については、ソ連の意向を受け容れ、国際連合憲章の発効を進めることになった。
ドイツについては、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの四カ国による分割占領が決まった。

ヤルタ会談で最も時間が費やされたのがポーランド問題だった。
ポーランドは、ヨーロッパとロシアの境界に位置し、戦略的に重要な地域だった。スターリンはソ連侵略を防ぐためにポーランドを必要としており、チャーチルは共産主義に対する防波堤としてポーランドを欲していた。
1939年、ドイツ軍とソ連軍によって分割占領されると、パリに亡命政府が誕生。1940年にはロンドンに拠点を移した。1943年、ドイツ軍がカティンの森で、ソ連に虐殺された多数のポーランド軍人捕虜の死体を発見した。ソ連はドイツの仕業と主張したが、亡命政府はソ連と断交する。チャーチルは亡命政府の正統性を主張した。
一方のスターリンは、1941年、独ソ不可侵条約を破ったドイツがポーランドを不当に占領しており、ポーランドの割譲を求めた。ソ連はルブリン政権を支援し、ポーランドの実権を握ろうとする。
結局、ルーズベルトが仲介し、戦後にポーランドで総選挙を行い国民自身が政府を選ぶことでチャーチルの顔を立て、、ポーランドの国境線そのものを西へずらしソ連が占領していたポーランド東側を与えることでスターリンの顔を立てた。だが、このことにより、ドイツ国土の4分の1が失われることになった。

日本の戦後処理について、チャーチルを除き、ルーズベルトとスターリンの間で秘密会談が行われた。
太平洋戦争で日本の敗戦は濃厚だったが、アメリカ軍の犠牲者も加速度的に増えていた。そこで、ルーズベルトはスターリンに、日本への宣戦を持ちかけた。しかしスターリンは日ソ中立条約を楯に、日本への参戦の合理性がないと突っぱねた。ルーズベルトは、樺太の南半分、千島列島をソ連に引き渡し、旅順口の租借権や満州鉄道の運営権をソ連に与え、外蒙古は現状維持(モンゴル人民共和国を認める)という極東密約を結び、ソ連参戦を約束させた。
台湾については、カイロ会談で決まっていた中華民国への返還を確認した。しかし、極東密約の内容が中華民国の主権を大きく侵害していることから、蒋介石はこれに激怒した。しかし、三大国に逆らうこともできず、受け容れざるを得なかった。

こうして舞台裏で戦後処理の大枠が決まり、表舞台では国際連合が発足する準備が整えられた。

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参考サイト

(この項おわり)
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