
ボフダン・フメリニツキー

1648年の東欧(Wikipediaより)
その結果、東ヨーロッパにおけるポーランド・リトアニア共和国の勢力は衰え、代わりにロシア・ツァーリ国が台頭し、クリミア・ハン国やオスマン帝国と対立することになる。また、民族対立と宗教の不寛容化が進んでいった。

ヤン2世
フメリニツキーの乱が起きると、共和国政府は反乱の鎮圧に乗り出すが、フメリニツキーは南方の大国クリミア・ハン国と同盟を結び、ポーランド軍を撃破する。
反乱軍は北上しながらポーランド軍を次々に打ち破り、1649年1月、キエフに凱旋する。8月には、前年に選挙によって即位したばかりのポーランド国王ヤン2世との間に和平条約「ズボーリウ条約」を結んだ。
しかし、ズボーリウ条約をめぐってポーランド・リトアニア共和国内で意見が分かれ、1651年6月、ポーランド軍と反乱軍は西ウクライナのヴォルィーニ地方で対峙する。両軍の人員は20万人を超え、それまでのヨーロッパ史上最大の戦いとなるベレステーチコの戦いが起きる。
反乱軍は北上しながらポーランド軍を次々に打ち破り、1649年1月、キエフに凱旋する。8月には、前年に選挙によって即位したばかりのポーランド国王ヤン2世との間に和平条約「ズボーリウ条約」を結んだ。
しかし、ズボーリウ条約をめぐってポーランド・リトアニア共和国内で意見が分かれ、1651年6月、ポーランド軍と反乱軍は西ウクライナのヴォルィーニ地方で対峙する。両軍の人員は20万人を超え、それまでのヨーロッパ史上最大の戦いとなるベレステーチコの戦いが起きる。

ベレステーチコの戦い
ベレステーチコの戦いで共和国は勝利し、反乱軍には多くの犠牲者が出た。このことが逆に、民族対立を生み、戦乱は次第にポーランド対ウクライナの大規模戦争に発展していった。
1652年6月、反乱軍は、ポーランド重騎兵とドイツ傭兵隊を加えたポーランド軍を打ち破った。しかし。頭に血が上った共和国政府は戦争を継続する。
1652年6月、反乱軍は、ポーランド重騎兵とドイツ傭兵隊を加えたポーランド軍を打ち破った。しかし。頭に血が上った共和国政府は戦争を継続する。

アレクセイ・ミハイロヴィチ
この戦争の最中、ポーランド・リトアニア共和国の弱体化を目論む周辺諸国は、フメリニツキーへ同盟の申し入れを行っていた。クリミア・ハン国に続き、オスマン帝国のメフメト4世はウクライナを保護国にするとの約束状を送った。これにはウクライナ正教会が反対した。
ロマノフ家のアレクセイ・ミハイロヴィチが率いるロシア・ツァーリ国もウクライナを保護国にすることに関心を示し、1654年1月、ペレヤースラウ条約を締結する。これにより、1648年からコサックの国家「ヘーチマン国家」が正式に認められる。
ロマノフ家のアレクセイ・ミハイロヴィチが率いるロシア・ツァーリ国もウクライナを保護国にすることに関心を示し、1654年1月、ペレヤースラウ条約を締結する。これにより、1648年からコサックの国家「ヘーチマン国家」が正式に認められる。

カール10世グスタフ
ロシア・ツァーリ国が介入したことにより、1654年、ロシア・ポーランド戦争が勃発する。ところが、1655年、これを好機とみたスウェーデン王カール10世が侵攻開始したため、ロシアとポーランドは休戦。スウェーデン軍を迎え撃った。
スウェーデンを同盟国と見ていたフメリニツキーは、ロシアの裏切りと感じたが、彼は病気にかかっており、ロシアからの離脱はかなわなかった。1657年8月6日、フメリニツキーは死去し、跡を継いだ息子ユーリイは16歳という若さで、反乱軍を率いていく度量もなく、ここにフメリニツキーの乱は終結する。
スウェーデンを同盟国と見ていたフメリニツキーは、ロシアの裏切りと感じたが、彼は病気にかかっており、ロシアからの離脱はかなわなかった。1657年8月6日、フメリニツキーは死去し、跡を継いだ息子ユーリイは16歳という若さで、反乱軍を率いていく度量もなく、ここにフメリニツキーの乱は終結する。

1660年の東欧(Wikipediaより)
東ヨーロッパにおいて、クリミア・ハン国、オスマン帝国と覇権争いを続けていたポーランド・リトアニア共和国だったが、フメリニツキーの乱をきっかけに大洪水時代と呼ばれる衰亡期に入る。代わって、ロシア・ツァーリ国が台頭する。
こうして東ヨーロッパの版図が塗り替えられる中、多くの戦争が起き、民族対立と宗教の不寛容化が進んでゆくことになる。
こうして東ヨーロッパの版図が塗り替えられる中、多くの戦争が起き、民族対立と宗教の不寛容化が進んでゆくことになる。
この時代の世界
(この項おわり)
1651年、コサック軍は、それまでのヨーロッパ史上最大の戦いとなるベレステーチコの戦いに勝利するが、1657年、フメリニツキーは死去し、反乱を継続する求心力を失った。