
日産リーフ (2010年モデル)
2010年(平成22年)12月、日産自動車は、世界で初めて量産化した5人乗り電気自動車(EV車)リーフ(LEAF)を販売開始する。2019年(平成31年)にはEVとして史上初の累計販売台数40万台を達成した。
米カリフォルニア州は、全米の自動車販売で10%以上のシェアを占めるが、1990年(平成2年)に大気汚染対策として、ZEV規制(ZEV;Zero Emission Vehicle)を打ち出し、7年後までに排気ガスを出さない自動車の販売を自動車メーカーに求めた。

これを受け日産では、門田英稔をリーダーに、技術車両開発室(EV開発部)を50名体制で発足させた。EV車の鍵を握る電池開発チームには、材料研究所の宮本丈司や枚田典彦が参画し、電池の性能やモーターのパワーなどを向上させていった。

ところが、日産はバブル崩壊の影響で高級車の販売が減少し、コスト削減も思うように進まず、1998年(平成10年)には約2兆円の有利子負債を抱え、経営危機に陥ってしまう。1999年(平成11年)3月にフランスの自動車メーカーのルノーと資本提携を結び、その傘下に入ることで辛うじて倒産を逃れた日産に、ルノーから最高執行責任者(COO)としてカルロス・ゴーンがやってきた。
ゴーンは不採算部門を次々にカットしていき、EV開発部も解散させられた。こうしてEV開発部のメンバは社内に散り散りとなるのだが、研究は細々と続けられた。

宮本と枚田は、高いエネルギー密度をもち、三洋電機が特許をもっていた~リチウムイオン電池に目をつけたが、熱や衝撃で発火しやすいという欠点があった。
1997年(平成9年)12月に発売開始したトヨタのハイブリッド車プリウスも、安全性の点からリチウムイオン電池を見送り、従来型のニッケル水素電池を搭載した。
だが、宮本と枚田は、リチウムイオン電池の安全性を確保できれば、自動車革命が起きると信じていた。

2007年(平成19年)、ゴーンがCOOに就任してから初めて日産は減収となった。売る商品かなくなってしまったのだ。そこで、ゴーンは新EVプロジェクトの立ち上げを決断し、門田をプロジェクトリーダーに呼び戻した。その要求は厳しかった――3年でEVを量産化し、グローバル展開せよ――開発期間は通常の自動車の半分しかなかった。門田はプリウスとの真っ向勝負を決意し、かつてのEV開発チームを招集した。

2008年(平成20年)春、電池開発が始まった。ここに、生産技術部のリーダー、岸田郁夫が加わる。開発チームがつくった電池の製造手順は、とても量産化できる手順ではないことから乗り込んできた。岸田は、開発の意見を無視した生産工程表を提示した。今度は開発側が反発した。電池開発パック担当の平井敏郎が間に入り、発売まで1年半しか猶予が無い中、なんとかチームとして協力して開発を進めた。

しかし、開発中に電池が燃える事故が頻発した。さらに、10年保つ電池を目標にしたが、1年で寿命が来てしまう課題が解決できないままだった。
宮本は、三洋電機を吸収したパナソニックの電池技術者、新田芳明をスカウトする。新田は、寿命が短くなる原因が電極シートの不均一反応であることを突き止めた。しかし、発売まで半年しかなかった。
NECから出向していた電子技術者、雨宮千夏は、「うどん棒」の工程により電池シートの皺が伸び、電解液が均等に染みこむことを示した。電池の寿命は劇的に向上した。生産技術部の岸田たちは14台の皺伸ばし機を作り、生産工場に設置した。
発売2ヶ月前に電池の量産が始まった。間一髪だった。

2010年(平成22年)12月に、リーフの発売がはじまった。
2011年(平成23年)、リーフは世界中のカー・オブ・ザ・イヤーを総なめにした。さらに、無給電走破435kmを達成した。
2019年(平成31年)、リーフは、EVとして史上初の累計販売台数40万台を達成し、電池の発火による人身事故はゼロと、安全性が高い車であることを証明した。
しかし、2020年代に入ると、アメリカや中国が安価なEV車を次々に発表し、市場を席巻していく。

これを受け日産では、門田英稔をリーダーに、技術車両開発室(EV開発部)を50名体制で発足させた。EV車の鍵を握る電池開発チームには、材料研究所の宮本丈司や枚田典彦が参画し、電池の性能やモーターのパワーなどを向上させていった。

ところが、日産はバブル崩壊の影響で高級車の販売が減少し、コスト削減も思うように進まず、1998年(平成10年)には約2兆円の有利子負債を抱え、経営危機に陥ってしまう。1999年(平成11年)3月にフランスの自動車メーカーのルノーと資本提携を結び、その傘下に入ることで辛うじて倒産を逃れた日産に、ルノーから最高執行責任者(COO)としてカルロス・ゴーンがやってきた。
ゴーンは不採算部門を次々にカットしていき、EV開発部も解散させられた。こうしてEV開発部のメンバは社内に散り散りとなるのだが、研究は細々と続けられた。

宮本と枚田は、高いエネルギー密度をもち、三洋電機が特許をもっていた~リチウムイオン電池に目をつけたが、熱や衝撃で発火しやすいという欠点があった。
1997年(平成9年)12月に発売開始したトヨタのハイブリッド車プリウスも、安全性の点からリチウムイオン電池を見送り、従来型のニッケル水素電池を搭載した。
だが、宮本と枚田は、リチウムイオン電池の安全性を確保できれば、自動車革命が起きると信じていた。

2007年(平成19年)、ゴーンがCOOに就任してから初めて日産は減収となった。売る商品かなくなってしまったのだ。そこで、ゴーンは新EVプロジェクトの立ち上げを決断し、門田をプロジェクトリーダーに呼び戻した。その要求は厳しかった――3年でEVを量産化し、グローバル展開せよ――開発期間は通常の自動車の半分しかなかった。門田はプリウスとの真っ向勝負を決意し、かつてのEV開発チームを招集した。

2008年(平成20年)春、電池開発が始まった。ここに、生産技術部のリーダー、岸田郁夫が加わる。開発チームがつくった電池の製造手順は、とても量産化できる手順ではないことから乗り込んできた。岸田は、開発の意見を無視した生産工程表を提示した。今度は開発側が反発した。電池開発パック担当の平井敏郎が間に入り、発売まで1年半しか猶予が無い中、なんとかチームとして協力して開発を進めた。

しかし、開発中に電池が燃える事故が頻発した。さらに、10年保つ電池を目標にしたが、1年で寿命が来てしまう課題が解決できないままだった。
宮本は、三洋電機を吸収したパナソニックの電池技術者、新田芳明をスカウトする。新田は、寿命が短くなる原因が電極シートの不均一反応であることを突き止めた。しかし、発売まで半年しかなかった。
NECから出向していた電子技術者、雨宮千夏は、「うどん棒」の工程により電池シートの皺が伸び、電解液が均等に染みこむことを示した。電池の寿命は劇的に向上した。生産技術部の岸田たちは14台の皺伸ばし機を作り、生産工場に設置した。
発売2ヶ月前に電池の量産が始まった。間一髪だった。

2010年(平成22年)12月に、リーフの発売がはじまった。
2011年(平成23年)、リーフは世界中のカー・オブ・ザ・イヤーを総なめにした。さらに、無給電走破435kmを達成した。
2019年(平成31年)、リーフは、EVとして史上初の累計販売台数40万台を達成し、電池の発火による人身事故はゼロと、安全性が高い車であることを証明した。
しかし、2020年代に入ると、アメリカや中国が安価なEV車を次々に発表し、市場を席巻していく。
この時代の世界
参考サイト
- 友とつないだ自動車革命 ~世界初!5人乗り量産EV~:新プロジェクトX, NHK
(この項おわり)