
PlayStation

久夛良木健
ソニーの技術者、久夛良木健はスーパーファミコン向けのPCM音源「SPC700」を設計し、任天堂に提供した。しかし、ROMカセットのデータ容量ではSPC700の能力を十分に発揮できないことから、CD-ROMの搭載を進言した。
1989年(平成元年)10月から任天堂とソニーの共同開発が始まり、1990年(平成2年)1月には大賀典雄・ソニー社長と山内溥・任天堂社長の間で「プレイステーション」開発の合意文書が締結された。
しかし、1991年(平成3年)6月にシカゴで開かれたCESで、任天堂はフィリップスと提携し、CD-iによるゲームソフト提供を発表した。
梯子を外された格好の久夛良木だったが、大賀の計らいにより、丸山ワクチンの開発者・丸山千里の息子で、大賀の親族にあたる丸山茂雄が率いるソニー・ミュージックエンタテインメントに転籍することで難を逃れた。
1989年(平成元年)10月から任天堂とソニーの共同開発が始まり、1990年(平成2年)1月には大賀典雄・ソニー社長と山内溥・任天堂社長の間で「プレイステーション」開発の合意文書が締結された。
しかし、1991年(平成3年)6月にシカゴで開かれたCESで、任天堂はフィリップスと提携し、CD-iによるゲームソフト提供を発表した。
梯子を外された格好の久夛良木だったが、大賀の計らいにより、丸山ワクチンの開発者・丸山千里の息子で、大賀の親族にあたる丸山茂雄が率いるソニー・ミュージックエンタテインメントに転籍することで難を逃れた。

丸山茂雄

国内家庭用ゲーム市場規模

3DO REAL
各社は、家庭用ゲーム機の市場を制するにはハードウェア性能向上が不可避と考え、32ビットCPUを搭載する次世代機競争が勃発する。

セガサターン
ソニーでもゲーム事業への進出について議論が行われ、久夛良木が試作品が出来上がっていることを公表し、大賀がゴーサインを出した。ソニー創業者の一人、盛田昭夫もゲーム事業進出に好意的であったという。1992年(平成4年)に開発プロジェクトが立ち上がり、1993年(平成5年)11月にソニー・コンピュータエンタテイメント(SCE)が設立する。

PC-FX
一方、1994年(平成6年)3月に松下電器は32ビットCPUを搭載した「3DO REAL」を、11月にセガ・エンタープライゼスが「セガサターン」を発売する。12月3日に PlayStationが発売され、やや遅れて日本電気ホームエレクトロニクスは「PC-FX」を発売。
1996年(平成8年)に入ると、3月にバンダイとApple Computerが「ピピンアットマーク」を発売。6月に任天堂が発売した「NINTENDO64」は、64ビットCPUを搭載することで他の次世代機を超える3D描画能力を備えていたが、開発難易度が高く、その性能を活かせるソフト開発が遅れ、次世代機競争は PlayStationが勝者となった。
1996年(平成8年)に入ると、3月にバンダイとApple Computerが「ピピンアットマーク」を発売。6月に任天堂が発売した「NINTENDO64」は、64ビットCPUを搭載することで他の次世代機を超える3D描画能力を備えていたが、開発難易度が高く、その性能を活かせるソフト開発が遅れ、次世代機競争は PlayStationが勝者となった。

NINTENDO64
次世代機のうち、まず、ROMカセットより安価にソフトを供給できるCD-ROMを利用した機種が抜きん出た。次に、親会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのCD-ROM生産設備を利用することでソフトを安定供給できた PlayStationが最終勝者となった。

PlayStationのメイン基板(右下の大きなLSIがCPU+GTE+MEDC)
こうして家庭用ゲーム機市場は、ハード至上主義から、キラーコンテンツとなるソフトを安価に安定して供給するビジネスモデルへと移行していく。
さらに1990年代終盤から2000年代にかけインターネットが普及につれ、ゲームソフトの流通の概念が崩れる。ソフトをダウンロードすることでプレイできるケータイアプリや、アプリケーション本体はクラウドにあるスマホゲームへと移行していき、家庭用ゲーム機のハードが必要でなくなっていった。
さらに1990年代終盤から2000年代にかけインターネットが普及につれ、ゲームソフトの流通の概念が崩れる。ソフトをダウンロードすることでプレイできるケータイアプリや、アプリケーション本体はクラウドにあるスマホゲームへと移行していき、家庭用ゲーム機のハードが必要でなくなっていった。
項目 | 仕様 | 備考 |
---|---|---|
CPU | MIPS R3000Aベース 32ビットRISCプロセッサ(33.8688MHz) 命令処理能力: 30 MIPS |
CPU、GTE、MDECがプロセスルール0.6μmでパッケージング化され、約100万個のトランジスタを集積している。 |
GTE | ベクトル演算コプロセッサ 演算能力: 最大150万ポリゴン/秒 ポリゴン表示能力: 最大36万ポリゴン/秒 |
|
MDEC | 画像伸張エンジン JPEGデコーダチップ。動画再生エンジン兼テクスチャ展開。 Motion JPEG動画の再生能力は、320x240ドット時で秒間30フレーム |
|
GPU | 最大1677万色 解像度:256×224~640×480ピクセル |
表示画面1画面 |
サウンドSPU | 16bit ADPCM 最大44.1kHz 同時発音数: 2.0chステレオ 24チャンネル リニアPCM2.0chステレオ出力 |
スーパーファミコンのサウンド用DSP「SPC700」の後継LSI |
RAM | 2Mバイト | |
グラフィックVRAM | 512Kバイト | |
オーディオRAM | 1Mバイト | |
メディア | 倍速CD-ROMドライブ | |
コントローラ | コントローラ端子×2 | マルチタップ使用時は最大8台 |
AV出力 | アナログ映像出力: コンポジット端子×1、S端子×1 アナログ音声出力: RCA端子×1 アナログ出力: AVマルチ×1 |
|
I/O | メモリーカード差込口×2 通信(シリアル)×1 外部拡張(パラレル)×1 DC出力×1 |
|
外形寸法 | 270(W)×60(H)×188(D)mm |
この時代の世界
(この項おわり)
家庭用ゲーム機として初めて本格的な3Dグラフィックスを導入し、次世代機として競合していたセガサターンやNINTENDO64を寄せ付けず、任天堂の牙城だったゲーム市場を奪取した。
200年3月に後継機「PlayStation 2」が発売された後も生産が続き、累計出荷台数は1億台を超えた。