
マハトマ・ガンジー

マハトマ・ガンジーとチャルカ

塩の行進
ガンジーは、糸車「チャルカ」をシンボルに民衆運動を展開する。だが、イギリスから帰国したガンジーは、1922年3月10日に民衆を扇動した罪でインド総督府に逮捕される。
1924年2月5日に釈放されたガンジーは、1924年3月12日、78人の有志とともに海へ向かって歩き始める。当時のインド人は、海水から塩を製造することを禁じられていた。
1924年2月5日に釈放されたガンジーは、1924年3月12日、78人の有志とともに海へ向かって歩き始める。当時のインド人は、海水から塩を製造することを禁じられていた。

塩の行進
ガンジーらは、自分たちの摂る塩は自分たちで作るということをスローガンにした。やがて塩の行進には数千人が参加し、3キロの長さの大行進にふくれあがった。4月6日にはアラビア海の海岸に到着し、実際に塩を作った。このことで5月5日、ガンジーは再び逮捕される。

アーウィン卿エドワード・ウッド
1931年1月19日に解放されたガンジーは、自らがインド国民の代表として交渉することを総督府に要請。3月5日、交渉は実現し、アーウィン総督はインド人による塩の製造と10万人の政治犯釈放に応じる。

インド国内ではヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いが激化し、第二次世界大戦で疲弊したイギリスはこれを収拾することを諦め、1947年8月15日、インドは念願の独立を果たした。しかし、ガンジーの国民融和の声は届かず、ヒンドゥー教とイスラム教の対立のためにパキスタンとの分離独立する結果になった。1948年1月30日、ガンジーはニューデリーで、ヒンドゥー原理主義者によって射殺される。

インド国内ではヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いが激化し、第二次世界大戦で疲弊したイギリスはこれを収拾することを諦め、1947年8月15日、インドは念願の独立を果たした。しかし、ガンジーの国民融和の声は届かず、ヒンドゥー教とイスラム教の対立のためにパキスタンとの分離独立する結果になった。1948年1月30日、ガンジーはニューデリーで、ヒンドゥー原理主義者によって射殺される。
この時代の世界
(この項おわり)
1888年、ガンジーはイギリスへ渡り、法律学校へ入学。1891年に弁護士の資格を取る。1893年5月、南アフリカへ渡ったガンジーは、人種差別の現実を目の当たりにする。1906年、南アフリカで外国人登録証への不服運動を始める。一切暴力を用いないという運動だった。