
シベリア出兵を伝える日本の画報
1917年(大正6年)、ロシアで二月革命、十月革命が相次いで起きた。1918年(大正7年)、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本などの連合国は、革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出するという大義名分のもとに、ボリシェヴィキ政権への干渉を目的としてシベリアに出兵する。日本は、当初計画の10倍に達する7万2千人の兵士をシベリアへ送り込んだ。

シベリア出兵する日本軍
1918年(大正7年)11月、ドイツが降伏して第一次世界大戦が終結すると、戦争継続のためにチェコ兵捕虜を救出するという出兵の意味が無くなり、実際、チェコ兵も順次帰国した。

シベリア出兵
イギリスとフランスは1919年(大正8年)中に撤退し、アメリカも1920までに撤兵した。しかし、日本軍は事後処理が必要として駐留を続け、当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。

尼港事件
1920年(大正9年)3月、共産パルチザンがアムール川河口にあるニコライエフスク港の日本陸軍守備隊や日本人居留民など6,000人を虐殺する尼港事件が発生した。

北樺太占領
日本軍は報復として、北樺太を占領した。狙いは石油であった。これに対しアメリカから圧力がかかり、1922年(大正11年)10月、日本軍はシベリアから撤兵した。しかし、北樺太での駐留は、日ソ基本条約が締結される1925年(大正14年)1月まで続いた。

米騒動

原敬
しかし、次々と汚職事件が明らかになり、1921年(大正10年)11月、原総理大臣は東京駅で刺殺されてしまう。
この時代の世界
(この項おわり)