
8月、激戦の末、上海を占領した日本軍は、政府の命令を無視し、敗走する中国軍を追って南京へ侵攻する。12月に日本軍は南京を占領するが、市民を虐殺する南京事件が起きた。

南京が陥落しても蒋介石の国民党軍が降伏しないため、1938年(昭和13年)1月、近衛内閣は国民党を相手にしないという声明を発表する。このように明確な宣戦布告もなく、対戦国を無視するという状況で、日中戦争を収拾する機会を失ってしまった。

1940年(昭和15年)7月に第二次近衛内閣が成立し、西欧諸国からの独立と自給自足を目指す大東亜共栄圏構想をぶち上げ、資源確保を目論んで東南アジアまで侵攻することになる。

こうした日本の動きに対して、東南アジアに植民地を持つアメリカ、イギリス、オランダなどとの対立が深まり、ついに1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争に発展する。

なお、ソ連を含む共産勢力に対抗する名目で、1936年(昭和11年)の日独防共協定に続き、1937年(昭和12年)、日独伊三国防共協定が結ばれている。
また、総力戦を展開するために、1938年(昭和13年)4月、国家総動員法が成立する。

南京が陥落しても蒋介石の国民党軍が降伏しないため、1938年(昭和13年)1月、近衛内閣は国民党を相手にしないという声明を発表する。このように明確な宣戦布告もなく、対戦国を無視するという状況で、日中戦争を収拾する機会を失ってしまった。

1940年(昭和15年)7月に第二次近衛内閣が成立し、西欧諸国からの独立と自給自足を目指す大東亜共栄圏構想をぶち上げ、資源確保を目論んで東南アジアまで侵攻することになる。

こうした日本の動きに対して、東南アジアに植民地を持つアメリカ、イギリス、オランダなどとの対立が深まり、ついに1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争に発展する。

なお、ソ連を含む共産勢力に対抗する名目で、1936年(昭和11年)の日独防共協定に続き、1937年(昭和12年)、日独伊三国防共協定が結ばれている。
また、総力戦を展開するために、1938年(昭和13年)4月、国家総動員法が成立する。
この時代の世界
(この項おわり)
この衝突は3日ほどで終結をみるが、近衛内閣は居留民保護の名目で、3個師団を派遣するとともに、中国側に謝罪を求めた。これに対して蒋介石は中国国民に徹底抗戦を訴えた。これがきっかけに中国全土に戦渦が広がり、日中戦争に発展する。