
上海クーデター時の共産党員たち
1927年(昭和2年)4月12日、上海で蔣介石が共産党に対する大弾圧を行った。四・一二事件とも行われる。
1927年(昭和2年)3月26日、蒋介石が上海に入ると、上海総商会が彼に早期の安定回復を求めた。この頃、共産党指導下の労働組合である上海総工会は、蒋介石に反対して大規模なストライキを計画していたという。また、国民党内でも共産党の行動を「行き過ぎ」と批判する声が強まった。
こうした内外の圧力を背景に、蒋介石は共産党との決別を決意した。
蒋介石は戒厳令を布告すると、自らは上海を離れた。共産党弾圧は、杜月笙が率いる秘密結社青幇が実行することになる。

蔣介石が共産党を排除して南京国民政府を樹立すると、汪精衛ら国民党左派と共産党勢力は武漢政府を樹立して蔣介石を国民党から除名するなどして抵抗した。しかし武漢政府内にも反共勢力が台頭して分裂。7月、共産党は武漢政府を離脱、国民党も容共政策の破棄を声明して第一次国共合作は破綻した。
こうして第二次国共合作が成立する1937年(昭和12年)まで、国民党と共産党は第一次国共内戦に突入する。
こうした内外の圧力を背景に、蒋介石は共産党との決別を決意した。
蒋介石は戒厳令を布告すると、自らは上海を離れた。共産党弾圧は、杜月笙が率いる秘密結社青幇が実行することになる。

蔣介石が共産党を排除して南京国民政府を樹立すると、汪精衛ら国民党左派と共産党勢力は武漢政府を樹立して蔣介石を国民党から除名するなどして抵抗した。しかし武漢政府内にも反共勢力が台頭して分裂。7月、共産党は武漢政府を離脱、国民党も容共政策の破棄を声明して第一次国共合作は破綻した。
こうして第二次国共合作が成立する1937年(昭和12年)まで、国民党と共産党は第一次国共内戦に突入する。
この時代の世界
(この項おわり)