『ハプスブルク帝国』――帝国主義と民主主義の違いは?

岩崎周一=著
表紙 ハプスブルク帝国
著者 岩崎 周一
出版社 講談社
サイズ 新書
発売日 2017年08月17日
価格 1,080円(税込)
rakuten
ISBN 9784062884426
ヨーロッパでは、君主と諸身分の合議による政治が一般化するうち、両者が討議し合意形成を行う場が、恒常的に設けられるようになった。これが身分制議会の発端である。(49ページ)

概要

ハプスブルク家の紋章
ハプスブルク家の紋章
本書は新書ながら400ページを超える分厚いもので、「ハプスブルク帝国に関心があるか、詳しいことは何も知らない」(4ページ)読者のために書かれたという。
高校の世界史で、ハプスブルク帝国は覚えるのが大変な題材の1つだった。国家通史として扱われないから、教科書のあちらこちらに散発的に登場し、全貌が見えなかったからだ。
ルドルフ1世
ルドルフ1世
だが、田中芳樹氏の『銀河英雄伝説』を読み、銀河帝国の始祖ルドルフ大帝の名が、ハプスブルク家の最初の神聖ローマ皇帝と同じであることから、その歴史を見通せるようになった。どちらも選挙で選ばれた皇帝であり、始祖から500年後、神聖ローマ帝国はナポレオンに滅ぼされ、銀河帝国ゴールデンバウム王朝はラインハルトによって滅ぼされる。
本書は、1273年のルドルフ1世の即位から始まる――。
宗教改革、レコンキスタ、三十年戦争、フランス革命、ナポレオン戦争、ウィーン会議、第一次世界大戦、ナチス・ドイツ‥‥すべてハプスブルク家が関与しており、その視点から西洋史を整理し直すと、帝国主義と民主主義の違いは、通史が教えるような単純なものではないと感じる。

レビュー

選帝侯による選挙は、現代民主主義のそれとは異質なものである。だが、全体主義回避という目的は同じだ。そして、選帝侯全員の賛成が必要という。反対する選帝侯は、事前に入れ替えてしまったようだ。私たち日本人が、ゲルマン民族に共感を覚えるのは、こうしたメンタリティが共通しているからかもしれない。
マクシミリアン1世
マクシミリアン1世
1508年、ハプスブルク家のマクシミリアン1世は、神聖ローマ皇帝の戴冠を受けるべくローマへ向かうがヴェネツィア共和国の妨害を受け、トレントで戴冠式を挙げる。これ以降、ハプスブルク家の皇帝はローマで戴冠式を挙げることはなくなった。
マクシミリアン1世は、自らがブルゴーニュ公国の一人娘マリーと結婚するなど、結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いた。中世最後の騎士と呼ばれたが、フッガー家との交流を通じて得た資金で傭兵や武器を整える一方、芸術へつぎ込んだ。
デューラー「自画像」
デューラー「自画像」
デューラーなどの芸術家のパトロンとなり、ウィーン少年合唱団の前身をつくった。ちなみに、マクシミリアン1世がマリーにダイヤモンドの指輪を贈ったのが婚約指輪の始まりとされる。
この後、ハプスブルク家は「戦争は他国にさせておけ、なんじ幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」というモットーのもとに領土拡大したとされるが、血縁者が断絶した領土を併合していったというのが史実である。わが国でも戦国時代に政略結婚が盛んに行われたが、断絶の効果の方が圧倒的であったことと同じだ。
カール5世
カール5世
1519年、マクシミリアン1世の孫、カール5世が神聖ローマ皇帝として即位する。母方の祖父母はグラナダを陥落させレコンキスタを完成したカトリック両王フェルナンド2世とイサベル1世。名家の血筋だ。
フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼラン
同年、カール5世が支援するマゼランが世界周航へ出発する。カール5世は、大航海時代のスペインを版図に収め、「太陽の沈まない国」としてハプスブルク家の絶頂期に君臨した。
一方で、宗教改革の嵐に晒され、ヨーロッパの覇権を競うフランス王国や、スレイマン1世が率いるオスマン帝国との戦乱が続き、心身ともに疲れ果て、晩年は自ら退位し修道院に隠棲した。
世界周航、宗教改革、イタリア戦争、ウィーン包囲ローマ略奪トリエント公会議は、すべてカール5世が関係する。ハプスブルク家で歴史を串刺ししてみると、中世から近世へ移行しつつあるヨーロッパの姿が浮かび上がってくるではないか。
カール1世のモットー "Plus Ultra (プルス・ウルトラ) "(ラテン語:もっと先へ)は、漫画『僕のヒーローアカデミア』で、たびたび引用される。
フェリペ2世
フェリペ2世
ハプスブルク家はこの後、スペイン系とオーストリア系に分かれる。カール5世の息子フェリペ2世は、スペイン帝国の最盛期を築いた。
1571年、レパントの海戦でオスマン帝国軍を退けた。1580年、ポルトガル王家が断絶したことから王位継承を主張し、翌年、身分制議会の決議を経てポルトガル王位に就き、イタリア半島を支配した。1584年、わが国から派遣された天正遣欧少年使節と面会した。
中南米の銀山開発により、ヨーロッパの金流通量は2.5倍に、銀流通量は3倍を超え、価格革命が起きた。しかし、複合的国制を維持するには莫大な費用がかかり、フェリペ2世が没した1598年、スペインの支払利息の総額は総収入の3分の2を占めるまでになってしまった。また、スペインの栄華は、新大陸から搾取することによって成り立っていた。
フェルディナント1世
フェルディナント1世
一方、カール5世の弟フェルディナント1世は、オーストリア系ハプスブルク家として、神聖ローマ皇帝の位を保持しつつ、チェコとハンガリーを加え、中欧にドナウ君主国を形成していった。いまでもハンガリーやチェコの民族は複雑であるが、フェルディナント1世も統治に苦労してしたことが分かる。
1555年、兄の神聖ローマ皇帝カール5世からドイツ支配を任されたドイツ王フェルディナントは、宗教対立を収束をはかるべく、諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰はカトリック教会とルター派から選ぶことができるとした「アウクスブルクの和議」が成立する。これにより、1521年に神聖ローマ皇帝カール5世がルターを追放したヴォルムス勅令は効力を失った。ただし、この時点におけるプロテスタントはルター派のみであり、カルヴァン派は想定していなかった。こうしてハプスブルク家による宗教統一は頓挫した。
このあと、プロテスタントに寛容なマクシミリアン2世、文化人でティコ・ブラーエケプラーを支援したルドルフ2世が神聖ローマ皇帝となったが、政治は混乱した。次のマティアスは、カトリックとプロテスタントの融和を進めるが、失敗。1619年、神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント2世の時代、弾圧に反発した急進派の貴族が皇帝代官マルティニツとスラヴァタをプラハ王宮の窓から突き落とすというプラハ窓外投擲事件事件が起き、三十年戦争の幕が切って落とされた。
一方、ネーデルランド諸州は1568年、スペイン・ハプスブルク帝国に反乱を起こし八十年戦争が勃発していた。これが三十年戦争に合流し、戦乱がだらだらと続くことになる。
戦争は、神聖ローマ帝国内におけるカトリックとプロテスタントの対立ではじまったが、後半はハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームに展開してゆく。戦争中、ドイツ国土は荒廃し、1800万人いた人口が700万人にまで減ってしまったといわれる。
1648年、フェルディナント3世がウェストファリア条約を受諾する形で、ようやく戦争は終結した。同時に、新教徒やカルヴァン派の信仰も認められ、ようやく宗教戦争に終止符が打たれた。
しかし、ドイツの約300ある諸侯は独立した主権国家となり、神聖ローマ帝国は実質的に解体されることになる。また、1661年、太陽王ルイ14世が親政を開始すると、フランス王国はドイツ諸州へ侵攻し、アルザスおよびロレーヌをほぼ占領する。帝国内では反仏感情が一気に高揚し、諸侯はハプスブルク家の支援を請う流れとなる。
1683年から1714年にかけ、ハプスブルク家は、第二次ウィーン包囲に端を発する対オスマン戦争、プファルツ継承戦争(9年戦争)、スペイン継承戦争と、再び30年におよぶ戦争を戦った。その結果、ハプスブルク家は領土を倍増させ、神聖ローマ皇帝カール6世の時代、国力と勢威を大いに増した。また、ウィーンはハプスブルク君主国の首都として本格的に発展していくこととなる。
マリア・テレジア
マリア・テレジア
1740年、カール6世が没すると、ハプスブルク家の男系男子は途絶える。長女マリア・テレジアが相続するが、これをめぐってオーストリア継承戦争が勃発する。
1765年、皇帝フランツ1世(マリア・テレジアの夫,ハプスブルク=ロートリンゲン家の祖)が没すると、長男のヨーゼフが後を継いだ(ヨーゼフ2世)。マリア・テレジアが没するまでの以後15年間、ハプスブルク君主国はマリア・テレジア、ヨーゼフ、カウニッツの「三頭体制」により統治されることとなる(マリア・テレジアはオーストリア大公妃で、皇帝には即位していない)。
ルイ14世
ルイ14世
一方、スペイン・ハプスブルク家はヨーロッパ屈指の名門で、そのプライドの高さがゆえに、格下の諸侯とは結婚せず、近親婚が繰り返された。 その結果、カルロス2世は心身に異常を来たし、スペイン・ハプスブルク家が途絶える。ここへ太陽王・ルイ14世が介入し、1701年、スペイン継承戦争が勃発する。
カール6世がスペイン王位を継承することを恐れた各国は、ルイ14世の孫をフェリペ5世として即位させ、1713年にユトレヒト条約を結んだ。この後ナポレオンに征服されるまで、スペインはブルボン朝による支配を受けることになる。
サン・キュロットに扮した歌手シュナール
サン・キュロットに扮した歌手シュナール
マリア・テレジアの下で外交革命が起き、長年敵対していたハプスブルク家とフランス王家の間で同盟関係が成立、政略結婚が行われた。
マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットがルイ16世の皇后となり、フランス革命が起きた。ヨーゼフ2世の弟で神聖ローマ皇帝となったレオポルド2世は革命への介入を呼びかけたが、1792年、ヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン連合軍はフランス軍に敗れ介入は失敗した。
ナポレオンの戴冠式
ナポレオンの戴冠式
レオポルド2世の長男で神聖ローマ皇帝となったフランツ2世はナポレオン戦争に巻き込まれ、1805年、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で敗北。南西ドイツ諸侯がナポレオンを盟主としてライン同盟を結成したため、1806年、神聖ローマ帝国皇帝を退位した。これにより神聖ローマ帝国は消滅するが、オーストリア大公の地位は残っており、初代オーストリア皇帝フランツ1世となった。
ウィーン会議
ウィーン会議
フランツ1世はメッテルニヒを登用し、ナポレオン戦争の戦後処理であるウィーン会議の主導権を握った。質素な生活を好み、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された。
カール・マルクス
カール・マルクス
ウィーンは繁栄を謳歌するが、それは一部の特権階層の話で、大多数の市民は半日を越える長時間労働が当然で、1842年に制定された児童保護法において、児童の労働時間が10~12時間に規制されるにとどまった。このような状況はヨーロッパ中で広くみられ、ここから社会主義思想が生まれてマルクスとエンゲルスが共産主義を唱えるようになるが、これらの思潮はハプスブルク君主国にも流入し、政府は神経を尖らせた。
ウィーンで10月革命が鎮圧され、体制刷新のためにフェルディナント1世が退位し、1848年10月、甥のフランツがフランツ・ヨーゼフ1世として即位した。
クリミア戦争で、敵対してきたオスマン帝国は弱体化したが、逆にハプスブルク家も友好国が一つもないという外交的孤立状態に陥った。1866年の普墺戦争での敗北は、ハンガリーとの関係改善を促進した。皇妃エリーザベトがハンガリーに肩入れしていたことも、これを後押しした。

1860年代後半、ハプスブルク君主国の年間経済成長率は8~10パーセントを記録し、産業経済は活性化した。鉄道網の拡充が各地の事業・産業を有機的に結びつけ、工業株式会社が次々に誕生する「創業期」が到来した。しかし、その裏ではバブル現象が徐々に拡大していた。それは1873年5月、万国博覧会の開幕直後にウィーン証券取引所で発生した株価の大暴落によって明白となる。ここから発生した「大不況」は、1870年代の世界経済を大きく混乱させた。
工業化の進展は、都市化をさらに促した。1873年にブダ、オーブダ、ペシュトの3市が合併してハンガリーの新首都ブダペシュトが誕生した。
労働者たちは環境の改善を求める声を強め、繰り返しストライキやデモを展開した。初のメーデーは1890年のことである。衛生環境の劣悪さは、ウィーン病と呼ばれるコレラや結核が猛威を振るった。ウィーンなどでカフェ文化が栄えた一因は、人々が住み心地の悪い自宅より、カフェに憩いの場を求めたことにある。
にもかかわらず、ウィーンは文化や科学の面ではヨーロッパ随一の都市であり続けた。レフ・トロツキーとヨシフ・スターリンも一時期をウィーンで過ごし、ここで初めて顔を合わせた。

1914年、ハプスブルク家のフランツ・フェルディナント大公が暗殺されたことをきっかけに、第一次世界大戦が勃発する。1918年、ハプスブルク君主国は連合国との休戦協定に調印し、権力の座から退いた。オーストリアは共和国となり、翌1919年、ハプスブルク法が制定され、最後の皇帝カール1世を含むハプスブルク一族は財産没収のうえでオーストリア国外へ追放されることとなった。
1921年、カール1世はハンガリー王国で復位を試みるが失敗。1922年に死去し、オットーが相続する。
ヒトラーは、ドイツとオーストリアの合併を視野に入れ、オットーへの接触を試みた。だがこれは実現せず、ヒトラーはオットーを激しく敵視するようになった。
1961年、オットーは、帝位請求権の断念を表明し、オーストラリアへの帰国の許可を求めた。オーストリアの政治が混乱し、オーストリア国民党とオーストリア社会党による大連立政権は崩壊し、オットーは帰国を果たした。その後、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合会長を務めるなど、汎ヨーロッパ主義的に活動した。
2011年、オットーが死去し、長男カールが相続した。
(2019年3月13日 読了)

参考サイト

(この項おわり)
header