
ティコ・ブラーエの修正地動説

ウラニボリ天文台

ティコ・ブラーエ
ティコ・ブラーエは1546年、 「ハムレット」の舞台とされるクロンボルク城を対岸に見るへノレシンボルクの領主の長男として生まれた。
若いころからヨーロッパ各地を遍歴し天文観測への関心を深めていったブラーエは1576年、デンマーク王フレデリック2世から、 フヴェン島という小さな島を領地として下賜された。国王はそこに、ブラーエの居城を兼ねた天文台を築かせたのである。
若いころからヨーロッパ各地を遍歴し天文観測への関心を深めていったブラーエは1576年、デンマーク王フレデリック2世から、 フヴェン島という小さな島を領地として下賜された。国王はそこに、ブラーエの居城を兼ねた天文台を築かせたのである。
当時、望遠鏡はまだ発明されていなかったが、天文台には四分儀、天球儀、水時計、日時計などのさまざまな機器が備えつけられ、観測室の屋根には移動式で開閉できる工夫まで施されていた。さらに図書館、製紙工場、印刷所、観測機器をつくる工房、果ては錬金術の実験室が併設される豪華さであった。庭内には、養魚場、薬草園、果樹園もつくられていた。

彼がフヴェン島で観測に専念できたのは、デンマーク王の後援もさることながら、島民から搾取した小作料や租税の収入があったからであった。
取り立てはかなり過酷に行われたという。それを物語るかのように、フヴェン島の天文台の地下には、ブラーエの命に従わない島民を投獄する牢がつくられていた。

1588年、フレデリック2世が亡くなると、クリスチャン4世が王位に就く。新しい国王は島民に対するブラーエの横暴ぶりを見過ごさなかった。
国王との札機を生じたブラーエはやがてフヴェン島を捨て、ヨーロッパを放浪、最後に神聖ローマ帝国の都プラハにたどりついた。1599年、皇帝ノレドルフ2世に召しかかえられたブラーエはそのままプラハに骨を埋めることになった。

彼がフヴェン島で観測に専念できたのは、デンマーク王の後援もさることながら、島民から搾取した小作料や租税の収入があったからであった。
取り立てはかなり過酷に行われたという。それを物語るかのように、フヴェン島の天文台の地下には、ブラーエの命に従わない島民を投獄する牢がつくられていた。

1588年、フレデリック2世が亡くなると、クリスチャン4世が王位に就く。新しい国王は島民に対するブラーエの横暴ぶりを見過ごさなかった。
国王との札機を生じたブラーエはやがてフヴェン島を捨て、ヨーロッパを放浪、最後に神聖ローマ帝国の都プラハにたどりついた。1599年、皇帝ノレドルフ2世に召しかかえられたブラーエはそのままプラハに骨を埋めることになった。
この時代の世界
(この項おわり)
また、1577年に出現した彗星についても多くの観測結果を残し、その現象が月よりも遠方で起きていることを証明した。