
アウクスブルクの和議
1555年、兄の神聖ローマ皇帝カール5世からドイツ支配を任されたドイツ王フェルディナントは、宗教対立を収束をはかるべく、南ドイツのアウクスブルクで帝国議会を召集した。その結果、諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰はカトリック教会とルター派から選ぶことができるとした「アウクスブルクの和議」が成立する。

フェルデナント1世
これにより、1521年に神聖ローマ皇帝カール5世がルターを追放したヴォルムス勅令は効力を失った。ただし、この時点におけるプロテスタントはルター派のみであり、カルヴァン派は想定していなかった。こうしてハプスブルク家による宗教統一は頓挫した。

1556年、フェルディナントは自ら退位したカール5世に代わり、フェルデナント1世として即位する。カール5世の息子フェリペ2世がスペインを継承したため、ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に分かれることになった。

1556年、フェルディナントは自ら退位したカール5世に代わり、フェルデナント1世として即位する。カール5世の息子フェリペ2世がスペインを継承したため、ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に分かれることになった。
アウクスブルクの和議では、領主はカトリック教会とルター派を選ぶことができるが、領民は領主の信仰に従わなければならない。従えない者は他の領土へ移住することはできたが、農民の不満は残された。
これが遠因となり、1618年、三十年戦争が勃発する。1648年、ウェストファリア条約が結ばれ、アウクスブルクの和議を確認するとともに、新教徒やカルヴァン派の信仰も認められ、ようやく宗教戦争に終止符が打たれた。
これが遠因となり、1618年、三十年戦争が勃発する。1648年、ウェストファリア条約が結ばれ、アウクスブルクの和議を確認するとともに、新教徒やカルヴァン派の信仰も認められ、ようやく宗教戦争に終止符が打たれた。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)