
杉原千畝
1940年(昭和15年)7月18日朝、領事館の周りにポーランドから逃れてきたユダヤ人などの難民100人が押し寄せた。杉原は、7月29日から日本通過ビザの発給を始める。
杉原は9月5日にリトアニアを去るまで1日平均100枚、合計2,139枚のビザを発給し、約6千人を救った。のちに「日本のシンドラー」と呼ばれるようになる。
杉原は9月5日にリトアニアを去るまで1日平均100枚、合計2,139枚のビザを発給し、約6千人を救った。のちに「日本のシンドラー」と呼ばれるようになる。

敦賀鉄道資料館
難民たちは、欧亜国際連絡列車に乗って敦賀に上陸した。敦賀の人たちは銭湯を無料開放したり、りんごなどの果物を無償で提供したりと、難民を温かく迎えた。
杉原は第二次世界大戦中はヨーロッパ各地を転々とし、1947年(昭和22年)4月、日本に帰国。6月13日付で外務省と退職した。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
1939年(昭和14年)8月、杉原はリトアニアの領事代理として赴任した。ドイツとソ連の情報を探る任務を帯びていた。