西暦1519年 - マゼランの世界周航/カール5世が即位

西回りで世界一周に成功/太陽の沈まない国

マゼランの世界周航

ビクトリア号
ビクトリア号
ポルトガルの冒険家マゼランは、亡命先のスペインで世界周航計画を実行に移す。そして1519年、5隻265人の探検隊を組織したマゼランはスペインを出航し、西回りの航路に入る。

南米最南端のマゼラン海峡を通り抜けた一行は、1522年にスペインに戻ってくる。しかし、マゼラン自身は1521年にフィリピンのハイチで現地人によって殺され、帰国した船もわずか1隻18人だけという過酷な航海であった。
フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼランは、1480年頃、ポルトガルで生まれる。
1505年、ポルトガルの軍人フランシスコ・デ・アルメイダの艦隊に入り、初めて航海に出る。
航海者としての経験を積んだマゼランは、香辛料の産地として有名なモルッカ諸島への西回り航路開拓のために船長にしてもらえるよう、ポルトガル王・マヌエル1世に要請した。しかし、国王はこれを拒絶する。
嫌気がさしたマゼランはスペインに移り住み、1517年、スペイン王・カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)に面会した。カルロス1世は心を動かされ、マゼランを艦隊長に任命した。

1519年9月20日、マゼランは旗艦トリニダー号(110トン)に乗船し、僚船のサン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻のカラベル船に265名の乗組員を乗せてスペインを出港する。
大西洋を横断した後、南アメリカ大陸に沿って南下していき、1520年1月9日にラプラタ河の河口に到着する。当時はここが太平洋へと出るための海峡の入り口だと考えられていた。マゼラン一行はは綿密な調査を行ったが、ここが海峡ではなく河であるということが判明した。
艦隊はさらに南下を続け、1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見する。この場所は後にマゼラン海峡と呼ばれることになる。マゼラン隊はわずか3隻になっていた。
マゼラン海峡は狭いうえに、速い潮流と多くの暗礁が広がる。マゼラン隊は奇跡的な操船で、わずか7日で通過し、穏やかな大海に抜け出る。マゼランはこの大海をマール・パシフィコ(El Mare Pacificum 平和の海、太平洋)と名づけた。

太平洋では島らしい島が見つからず、マゼラン隊は飢えに苦しめられた。
1521年3月16日、ようやくフィリピンのサマール島最南端に上陸する。
セブ島では現地の指導者ラジャ・フマボンをキリスト教に改宗させる。そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、隣島のマクタン島の領主でイスラム教徒のラプ・ラプが反対し、マゼラン隊との戦闘になった。1521年4月27日、マゼランは戦死する。

残された乗組員は2隻の船に分乗してフィリピンを後にする。
1521年11月8日、ようやく目的地のモルッカ諸島にたどり着き、大量の香辛料を積み込んだ。だが、この時点で航行可能なのはビクトリア号1隻を残すだけだった。
1521年12月21日、モルッカ諸島を出発したビクトリア号は、喜望峰を回り、1522年9月6日にスペインに帰還した。
生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であった。船内ではビタミンC不足による壊血病が多くの船員の命を奪った。

カール5世が即位

カール5世
カール5世
1519年、ハプスブルク家のカール5世が神聖ローマ皇帝として即位する。父方の祖父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、母方の祖父母はグラナダを陥落させレコンキスタを完成したカトリック両王フェルナンド2世とイサベル1世であった。

カール5世は、大航海時代のスペインを版図に収め、「太陽の沈まない国」としてハプスブルク家の絶頂期に君臨した。
一方で、宗教改革の嵐に晒され、ヨーロッパの覇権を競うフランス王国や、スレイマン1世が率いるオスマン帝国との戦乱が続き、心身ともに疲れ果て、晩年は自ら退位し修道院に隠棲した。
マクシミリアン1世
マクシミリアン1世(デューラー画)
カール5世は、1517年までネーデルランドで育った。
1516年、外祖父フェルナンド2世が死去すると、母フアナと共同統治という形でカスティーリャ王になった。
1519年、祖父マクシミリアン1世が死去すると、ハプスブルク家の領土を継承した。マクシミリアン1世はハプスブルク家による皇帝世襲化を目論んでいたが、ついに果たせず、ドイツ選帝侯による選出となった。カール5世フッガー家から資金を得て選挙を有利に進め、フランス王フランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝となった。
ハプスブルク家とヴァロワ朝フランス王国は、15世紀末からイタリアを巡って断続的に戦争を繰り返していた。これをイタリア戦争と呼ぶ。
1521年、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世はカール5世と結び、フランス支配下のミラノを奪還する。

1527年、カール5世ドイツ人傭兵 (ランツクネヒト) ローマ略奪を起こす。ドイツ人傭兵を恐れた教皇クレメンス7世は、イングランド王ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、のちにイングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

1521年、宗教改革を起こしたマルティン・ルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、その主張を認めず、同調者達と共に帝国から追放した。ここでルターを処断しなかったことで、プロテスタントはヨーロッパ全土へ拡散することになる。
1524年、ドイツ農民戦争が起こり、結果的にドイツ諸侯の力が増すことになる。
1545年、ローマ教皇パウルス3世を支援しトリエント公会議を開催。カトリック教会の再生へ踏み出すことに成功した。

1529年、スレイマン1世が率いるオスマン帝国軍は地中海の制海権を握り、ウィーンを包囲した。カール5世は宿敵フランソワ1世と同盟を結び、オスマン帝国に対峙。1543年、クレピーの和約を結んだ。だが、オスマン帝国との戦いは、息子フェリペ2世に引き継がれ、1571年のレパントの海戦で決着する。

1555年、通風と戦争に疲れたカール5世は自ら退位する。
スペイン・ネーデルラントの地位と領土は息子のフェリペ2世に譲り、オーストリア・神聖ローマ帝国の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。こうして、ハプスブルク家は、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分かれることになった。
カール5世はスペインの修道院に隠棲し、58歳で亡くなった。

この時代の世界

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