
その後も各地の反乱は収まらなかった。
カトリック司祭ホセ・マリア・テクロ・モレーロス・イ・パボンは、1813年に南部のほとんどを支配し、スペインからの独立と共和国建設を掲げた。1814年には主権在民、三権分立、奴隷制廃止(身分制度の廃止)、私有財産の保障などの自由主義的内容のメキシコ最初の憲法アパチンガン憲法を定めた。
しかし、1815年12月に政府軍に捕らわれ、反逆者として処刑された。

その後、スペインから指名された副王の支配下で、反乱は終息に向かった。
一方、宗主国スペインでは1812年憲法が制定され、自由主義国家となった。これを脅威と見た王党派のイトゥルビデは、、スペイン人王党派と本国の自由主義政府とのつながりを断ち切り、1821年8月に副王との間にコルドバ条約を結び、メキシコの独立が決まった。

独立体制を盤石なものとするため、1822年7月、イトゥルビデ自らが皇帝アグスティン1世を名乗って君主となり、第一次メキシコ帝国が成立した。

2010年9月、独立戦争から200年を祝い、メキシコでは記念祭典や軍事パレードが行われた。
カトリック司祭ホセ・マリア・テクロ・モレーロス・イ・パボンは、1813年に南部のほとんどを支配し、スペインからの独立と共和国建設を掲げた。1814年には主権在民、三権分立、奴隷制廃止(身分制度の廃止)、私有財産の保障などの自由主義的内容のメキシコ最初の憲法アパチンガン憲法を定めた。
しかし、1815年12月に政府軍に捕らわれ、反逆者として処刑された。

その後、スペインから指名された副王の支配下で、反乱は終息に向かった。
一方、宗主国スペインでは1812年憲法が制定され、自由主義国家となった。これを脅威と見た王党派のイトゥルビデは、、スペイン人王党派と本国の自由主義政府とのつながりを断ち切り、1821年8月に副王との間にコルドバ条約を結び、メキシコの独立が決まった。

独立体制を盤石なものとするため、1822年7月、イトゥルビデ自らが皇帝アグスティン1世を名乗って君主となり、第一次メキシコ帝国が成立した。

2010年9月、独立戦争から200年を祝い、メキシコでは記念祭典や軍事パレードが行われた。
この時代の世界
(この項おわり)
反乱を指揮したのは、メキシコ生まれの白人司祭ミゲル・イダルゴであった。彼は、グアナフアト近くのドロレスで「ガチュピン(スペイン出身の白人の蔑称)に死を!」という演説(ドロレスの叫び)を行い、宗主国スペインに対し独立闘争を起こした。
イダルゴは、人頭税の廃止、奴隷制度の廃止、土地改革などの急進的な要求を掲げたが、仲間のイグナシオ・アジェンデと意見が食い違い、アメリカ合衆国への逃亡を図った。しかし、1811年にスペイン側に逮捕され、3人の同志と共に銃殺刑に処された。