
1583年(天正11年)4月20日、豊臣秀吉の軍勢と柴田勝家の軍勢が賤ヶ岳で衝突する。賤ヶ岳の戦いである。豊臣軍が勝利する。
ともに織田信長の重臣であった秀吉と勝家であるが、本能寺の後、
1582年(天正10年)6月27日に開かれた信長の後継者を決める清洲会議で、勝家は秀吉の部下のような形になってしまう。

これに不満だった勝家は、信長に滅ぼされ室町幕府の最後の将軍(第15代将軍)で、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭を担いで上洛することを計画する。

1583年(天正11年)2月8日、柴田軍は越前を出発する。これを知った秀吉も軍勢を出す。
両者は、賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)で対峙し、策略家の秀吉が出るか、正面突破の勝家が出るかの持久戦になる。
4月20日、しびれをきらした柴田軍が前へ出るが、豊臣軍の罠にはまって敗退。

豊臣軍は敗走する柴田軍を追って越前に入る。
4月24日、勝家は、妻・お市とわずかな手勢をともない、自害して果てる。
この際、お市の娘たち(茶々、初、江)は秀吉によって救助される。
1582年(天正10年)6月27日に開かれた信長の後継者を決める清洲会議で、勝家は秀吉の部下のような形になってしまう。

これに不満だった勝家は、信長に滅ぼされ室町幕府の最後の将軍(第15代将軍)で、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭を担いで上洛することを計画する。

1583年(天正11年)2月8日、柴田軍は越前を出発する。これを知った秀吉も軍勢を出す。
両者は、賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)で対峙し、策略家の秀吉が出るか、正面突破の勝家が出るかの持久戦になる。
4月20日、しびれをきらした柴田軍が前へ出るが、豊臣軍の罠にはまって敗退。

豊臣軍は敗走する柴田軍を追って越前に入る。
4月24日、勝家は、妻・お市とわずかな手勢をともない、自害して果てる。
この際、お市の娘たち(茶々、初、江)は秀吉によって救助される。
この時代の世界
賤ヶ岳付近の地図
(この項おわり)