
天正遣欧少年使節
少年使節は1582年(天正10年)に長崎港を出港し、1584年(天正12年)にポルトガルの首都リスボンに到着する。スペインに移動し、国王フェリペ2世の歓待を受ける。
1585年(天正13年)、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
1586年(天正14年)、リスボンから日本への帰路につく。
この間に大村純忠、大友宗麟が相次いで死去し、1587年(天正15年)には豊臣秀吉がバテレン追放令を発布する。
少年使節団は1590年(天正18年)に長崎に到着した。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。
また、1591年(天正19年)には聚楽第において豊臣秀吉を前に西洋音楽を演奏した。

4人の晩年は寂しいものであった。
伊東マンショはイエズス会に入会し司祭となるが、領主の迫害などに遭い、1612年(慶長17年)に長崎で病死する。
千々石ミゲルは1601年(慶長6年)にイエズス会を退会したが各地で迫害に遭い、1633年(寛永10年)頃に死没した。
原マルティノは1614年(慶長19年)のキリシタン追放令を受けマカオに移住、1629年(寛永6年)にこの世を去った。
中浦ジュリアンは、キリシタン追放令後は地下活動を続けていたが、1633年(寛永10年)に捕縛され死罪となった。
1585年(天正13年)、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
1586年(天正14年)、リスボンから日本への帰路につく。
この間に大村純忠、大友宗麟が相次いで死去し、1587年(天正15年)には豊臣秀吉がバテレン追放令を発布する。
少年使節団は1590年(天正18年)に長崎に到着した。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。
また、1591年(天正19年)には聚楽第において豊臣秀吉を前に西洋音楽を演奏した。

4人の晩年は寂しいものであった。
伊東マンショはイエズス会に入会し司祭となるが、領主の迫害などに遭い、1612年(慶長17年)に長崎で病死する。
千々石ミゲルは1601年(慶長6年)にイエズス会を退会したが各地で迫害に遭い、1633年(寛永10年)頃に死没した。
原マルティノは1614年(慶長19年)のキリシタン追放令を受けマカオに移住、1629年(寛永6年)にこの世を去った。
中浦ジュリアンは、キリシタン追放令後は地下活動を続けていたが、1633年(寛永10年)に捕縛され死罪となった。
この時代の世界
参考サイト
- 天正遣欧少年使節団とバテレン追放令 その末裔(日本たばこ党宣言)
- 天正遣欧少年使節の出航(戦国時代)
- 天正遣欧少年使節団(くまちゃんと一緒~ナポリ人夫とのおバカ生活日記~)
(この項おわり)
少年使節は、大友宗麟の名代で正使の伊東マンショ、大村純忠の名代で正使の千々石ミゲル、副使の中浦ジュリアン、副使の原マルティノの4名。