
1575年(天正3年)に秀吉は筑前守に就任し、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの最中に従五位下・左近衛権少将に叙位任官された。これ以降、官位において主家の織田家を凌駕していくことになる。
1584年(天正12年)に、朝廷から征夷大将軍の任官を打診されるが、これを断り、従三位・権大納言に叙任され、1585年(天正13年)3月に正二位・内大臣に叙任された。
7月に長宗我部元親を攻め、四国を平定すると、二条昭実と近衛信輔との間で起きていた関白をめぐる争いに介入し、近衛前久の猶子となり、関白宣下を受ける。

1586年(天正14年)9月、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜わり、12月には太政大臣に就任する。
秀吉は軍事的に徳川家康を屈服させることができず、融和策として、妹の朝日姫を家康の正室として嫁がせ、母親の大政所を人質として差し出した。
これを受け、家康は大阪城で秀吉に謁見し、豊臣氏に臣従することを誓う。一方で、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続していたため、秀吉は東国を家康に任せ、西国平定を進めることになる。
1584年(天正12年)に、朝廷から征夷大将軍の任官を打診されるが、これを断り、従三位・権大納言に叙任され、1585年(天正13年)3月に正二位・内大臣に叙任された。
7月に長宗我部元親を攻め、四国を平定すると、二条昭実と近衛信輔との間で起きていた関白をめぐる争いに介入し、近衛前久の猶子となり、関白宣下を受ける。

1586年(天正14年)9月、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜わり、12月には太政大臣に就任する。
秀吉は軍事的に徳川家康を屈服させることができず、融和策として、妹の朝日姫を家康の正室として嫁がせ、母親の大政所を人質として差し出した。
これを受け、家康は大阪城で秀吉に謁見し、豊臣氏に臣従することを誓う。一方で、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続していたため、秀吉は東国を家康に任せ、西国平定を進めることになる。
この時代の世界
(この項おわり)
翌1586年(天正14年)には豊臣姓を賜って太政大臣となった。
さらに、1591年(天正19年)には関白を養子の豊臣秀次に譲り、自らを太閤と称した。
太閤とは、本来、摂政もしくは関白の職をその子弟に譲った人物のことを指すが、現在は秀吉その人を指すことが多い。