
プロイセンでも首都ベルリンで暴動が起き、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、憲法制定を約束した。これを見て、統一を求める自由主義者が集まり、フランクフルト国民議会を開催し、オーストリアを中心とする大ドイツ主義と、プロイセンと中心とする統一を掲げる小ドイツ主義が対立した。
結局、小ドイツ主義が採択され、プロイセン国王をドイツ皇帝に推薦するが、自由主義の台頭を恐れた国王は皇帝就任を拒否し、1849年、議会は解散させられる。
結局、小ドイツ主義が採択され、プロイセン国王をドイツ皇帝に推薦するが、自由主義の台頭を恐れた国王は皇帝就任を拒否し、1849年、議会は解散させられる。
この時代の世界
(この項おわり)
1848年、フランスで起きた二月革命の影響を受け、オーストリアでは首都ウィーンで起きた暴動によりメッテルニヒが失脚した。