
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」
革命前夜

ルイ18世
1824年、国王ルイ18世が死去すると、弟がシャルル10世として即位した。議会の解散やルイ14世時代の絶対王政復活を目指すという露骨な反動政策に、国民の不満が高まった。1827年から28年にかけての経済不況が拍車をかけた。シャルル10世は国民の不満を外に向けさせようと、地中海の対岸にあるオスマン帝国が支配するアルジェリアに出兵し、占領した。

シャルル10世
1830年3月、シャルル10世は議会で演説し、治安維持のための国王大権の行使をほのめかした。これに対し下院は内閣不信任案を決議し、シャルル10世は5月16日に議会を解散した。
7月の選挙では、国王派の妨害工作にも関わらず反国王派が圧勝したため、7月25日、シャルル10世は勅令を発して言論統制の強化をはかった。
7月の選挙では、国王派の妨害工作にも関わらず反国王派が圧勝したため、7月25日、シャルル10世は勅令を発して言論統制の強化をはかった。
栄光の3日間

シュネッツ「市庁舎前での戦い」
革命の終結と周辺国への影響

ルイ・フィリップ
8月2日、シャルル10世は退位し、オーストリアに亡命した。
しかし、反国王派内部では共和派と立憲王政派の対立があり、その妥協策として、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ・フィリップを新国王として召還し、立憲君主制の七月王政が誕生する。
しかし、反国王派内部では共和派と立憲王政派の対立があり、その妥協策として、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ・フィリップを新国王として召還し、立憲君主制の七月王政が誕生する。
こうしてウィーン体制の一部が崩れたことで、ヨーロッパ各地の自由主義運動に大きな影響を与えた。
フランスに隣接するオランダでは、12月にベルギーが独立した。
ロシアの支配下にあるポーランドでも独立運動が起きたが、ロシア軍の介入で鎮圧された。
ドイツ各地でも反乱が起きたが、これも鎮圧された。
フランスに隣接するオランダでは、12月にベルギーが独立した。
ロシアの支配下にあるポーランドでも独立運動が起きたが、ロシア軍の介入で鎮圧された。
ドイツ各地でも反乱が起きたが、これも鎮圧された。
この時代の世界
(この項おわり)
1830年の議会で自由主義者が過半数を占めると、国王シャルル10世は議会を解散させ、選挙権の制限に乗り出した。これに反発する民衆が、7月、パリで蜂起し、シャルル10世は国外に亡命する。これが七月革命である。ここにブルボン朝は滅びる。
資本家たちは革命の先鋭化を恐れ、ルイ・フィリップを新国王として召還した。