織田信長は1567年(永禄10年)、実妹のお市の方を近江(現在の滋賀県)の戦国武将・浅井長政と政略結婚させる。こうして後顧の憂いを断った信長は、足利義昭を奉じて上洛する。
1568年(永禄11年)10月、足利義昭は第15代将軍に就任する。
だが、若い将軍・義昭は信長の傀儡政権となることを好まず、ひそかに越前(現在の福井県)の戦国武将・朝倉義景と連絡を取り合い、信長を牽制しようとした。

この動きに怒った信長は、1570年(永禄13年)4月、越前へ侵攻を開始する。ところが突然、浅井軍が朝倉側に寝返り、織田軍の背後を突いた。織田軍は撤退を余儀なくされた。
京都へ一時撤退した信長は、すぐに兵馬を整え、浅井氏討伐に向かった。こうして6月28日に姉川の合戦が勃発する。

姉川の合戦は1日で決着が付いた。負けた浅井・朝倉連合軍は敗走し、浅井長政は小谷城に3年にわたって籠城することになる。
1568年(永禄11年)10月、足利義昭は第15代将軍に就任する。
だが、若い将軍・義昭は信長の傀儡政権となることを好まず、ひそかに越前(現在の福井県)の戦国武将・朝倉義景と連絡を取り合い、信長を牽制しようとした。

この動きに怒った信長は、1570年(永禄13年)4月、越前へ侵攻を開始する。ところが突然、浅井軍が朝倉側に寝返り、織田軍の背後を突いた。織田軍は撤退を余儀なくされた。
京都へ一時撤退した信長は、すぐに兵馬を整え、浅井氏討伐に向かった。こうして6月28日に姉川の合戦が勃発する。

姉川の合戦は1日で決着が付いた。負けた浅井・朝倉連合軍は敗走し、浅井長政は小谷城に3年にわたって籠城することになる。
この時代の世界
参考サイト
(この項おわり)
織田・徳川連合軍の約3万4千の兵に対し、浅井・朝倉連合軍は1万8千と劣勢だったにもかかわらず善戦し、戦は熾烈を極めた。双方の死者は2600人に及んだ。