
マイケル・ファラデー
1812年、ロンドン王立研究所のハンフリー・デービー教授の公開実験を聴講したファラデーは、実験の様子をスケッチし、清書したノートを製本してデイビーに送り届けた。これが縁で、翌年、デービーの助手に任命される。

デービーは、高等教育を受けていない製本職人が科学研究ができるとは想像だにしていなかったが、1816年、ファラデーは生石灰の分析に関する研究で最初の論文を発表すると、真理を嗅ぎつける独特の実験センスで、化学、物理の分野に大きな貢献をしていくことになる。

当時、解析学の支援を受けて発展していた力学分野は、数学を修めていないファラデーが参入する余地はなかったといえよう。一方、化学や電磁気学は錬金術世界をひきずっており、まず実験によってどのような未知の現象があるのかを調べることが必要であった。ここでファラデーの才能が活躍したのである。
ファラデーが電磁誘導を発見する数ヶ月前、アメリカの物理学者ジョセフ・ヘンリーも電磁誘導を発見しており、1829年にはイタリアのフランチェスコ・ツァンテデスキも論文を発表していた。だが、彼らが力学の遠隔力ととらえていたのに対し、ファラデーは電気力線・磁力線という近接作用を意識していた点が、ファラデーの真理を嗅ぎつける実験センスの表れであった。

1851年、ロンドン万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。
1853年に始まったクリミア戦争では、イギリス政府から化学兵器の製造を打診されたとき、ファラデーは机を叩き、「作ることは容易だが、絶対に手を貸さない」と言ったと伝えられている。

イギリスを代表する科学者となったファラデーは、1857年、王立協会会長に推挙されるが、これを固持した。1860年には有名な『ロウソクの科学』講演を行い、かつて自身がデービー教授の公開実験に魅せられたように、多くの子どもたちに科学の面白さを伝えた。
1858年まで王立研究室の一室で質素な暮らしを続けていたファラデーだが、健康を心配したヴィクトリア女王は彼にハンプトン・コートの屋敷を下賜した。ファラデーは「私は最後までただのマイケル・ファラデーでいたい」という名言を残し、1867年、この屋敷で息を引き取った。

デービーは、高等教育を受けていない製本職人が科学研究ができるとは想像だにしていなかったが、1816年、ファラデーは生石灰の分析に関する研究で最初の論文を発表すると、真理を嗅ぎつける独特の実験センスで、化学、物理の分野に大きな貢献をしていくことになる。

当時、解析学の支援を受けて発展していた力学分野は、数学を修めていないファラデーが参入する余地はなかったといえよう。一方、化学や電磁気学は錬金術世界をひきずっており、まず実験によってどのような未知の現象があるのかを調べることが必要であった。ここでファラデーの才能が活躍したのである。
ファラデーが電磁誘導を発見する数ヶ月前、アメリカの物理学者ジョセフ・ヘンリーも電磁誘導を発見しており、1829年にはイタリアのフランチェスコ・ツァンテデスキも論文を発表していた。だが、彼らが力学の遠隔力ととらえていたのに対し、ファラデーは電気力線・磁力線という近接作用を意識していた点が、ファラデーの真理を嗅ぎつける実験センスの表れであった。

1851年、ロンドン万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。
1853年に始まったクリミア戦争では、イギリス政府から化学兵器の製造を打診されたとき、ファラデーは机を叩き、「作ることは容易だが、絶対に手を貸さない」と言ったと伝えられている。

イギリスを代表する科学者となったファラデーは、1857年、王立協会会長に推挙されるが、これを固持した。1860年には有名な『ロウソクの科学』講演を行い、かつて自身がデービー教授の公開実験に魅せられたように、多くの子どもたちに科学の面白さを伝えた。
1858年まで王立研究室の一室で質素な暮らしを続けていたファラデーだが、健康を心配したヴィクトリア女王は彼にハンプトン・コートの屋敷を下賜した。ファラデーは「私は最後までただのマイケル・ファラデーでいたい」という名言を残し、1867年、この屋敷で息を引き取った。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
1791年、ロンドンの貧困家庭に生まれたファラデーは、十分な教育を受けることもなく、13歳の時に製本屋に奉公に出された。ここで多くの科学書に触れたファラデー少年は、『ブリタニカ百科事典』に載っていたボルタやガルバーニの電気実験を自分でもやってみたいと思うようになった。