西暦1678年 - フックの法則

実験科学から理論化学へ
フックの法則のイメージ
フックの法則のイメージ
1678 年、イギリスの物理学者ロバート・フックは、ばねの伸び縮みの長さは弾性力の大きさに比例するという「フックの法則」を発表する。高校物理で習う有名な法則で、ばねの伸び縮みの長さを  mimetex 、弾性力の大きさを  mimetex  、ばね定数を  mimetex  とすると、
 mimetex 


であらわせる。
チャールズ1世
チャールズ 1 世
フックは、ニュートンより 7 最年長だが、その伝記がほとんどない。肖像画すら残っていないという。
1635 年、フックは英ワイト島フレッシュウォーターで生まれる。身体が弱く工作好きで、日時計を作ったりしていたという。父は王党派の聖職者であった。
父と祖母から 50 ポンドを相続したフックは、ロンドンで画家ピーター・リリーに弟子入りするが、学問の才能を見いだされ、ウェストミンスター・スクールに入学。1653 年ごろ、オクスフォード大学のクライスト・チャーチに進んだ。クロムウェルが議会を解散して、護国卿となった時期である。
トーマス・グレシャム
トーマス・グレシャム
フックは、「ボイルの法則」でお馴染みロバート・ボイルの実験助手となり、オクスフォード・グループに参加する。オックスフォード・グループは、「悪貨は良貨を駆逐する」という有名な言葉を遺したトーマス・グレシャムが設立した社会人学校グレシャム・カレッジを会合の場とし、これが後に王立協会に発展する。
グレシャム・カレッジの教授として着任する直前、フックは協会からカレッジ内に住むことを許された。そして彼は、死ぬまでグレシャム・カレッジの一角を住居とした。
ロバート・フック『Micrographia』より
『Micrographia』より
王政復古によって、イギリスの政治的な混乱は収束した。だが、1665 年から 66 年にかけて、ロンドンはペストの流行と大火に見舞われる。建築家としてのフックは、鎮火後間もなく、ロンドンの再建プランを王立協会に提出した。このプランは採用されなかったが、測量技師として、ロンドンの再建に貢献した。
一方で、顕微鏡を使って、昆虫、コルク、針の先などをスケッチした『Micrographia』を 1665 年に発刊し、科学を身近なものにした。
ジョヴァンニ・カッシーニ
ジョヴァンニ・カッシーニ
フックは、グレシャム・カレッジでの『復元力についての講義』を行いながら、「フックの法則」をまとめていく。フックは、「知覚できる世界は、物体と運動から構成されている」と主張していた。彼は、アリストテレス主義やヘルメス主義の神秘主義的な「隠れた質」の議論を拒否し、世界を機械論の立場から説明しようとした。

フックは天体観測にも力を入れた。土星の衛星や輪の間隙を発見したカッシーニは、1666 年に火星の自転が 24 時間強であることを発見した。フックも、ほぼ同時期に同じ発見をしている。
クリスティアーン・ホイヘン
クリスティアーン・ホイヘン
フックは、地動説の証拠となる恒星の年周視差を観測しようとし、グレシャム・カレッジの自室に焦点距離12 メートルの屈折望遠鏡を固定設置した。ここで観測されたのは年周視差ではなく光行差であった。

それでも、フックが高性能の長大望遠鏡を作製することができ、高度な観測を行うことができた科学者であることは確かである。長大望遠鏡で観測に取り組んだホイヘンスやレンは彼の先駆者であり、天体の精密観測を行ったフラムスチードやハリーは、フックの後継者となったのである。フックの役割は、この 2 つの世代をつないだことにあった。
アイザック・ニュートン
アイザック・ニュートン
フックが日記を本格的につけ始めた 1672 年、アイザック・ニュートンが王立協会の会員に選ばれた。
この頃のニュートンは光学の研究をしており、独自のニュートン式反射望遠鏡を試作した。この評価を求められたフックは、実用レベルにないと判定した。当時の屈折望遠鏡には球面収差と色収差という欠陥があったが、これは焦点距離を延ばすことで改善された。反射望遠鏡にはこれらの収差はないものの、当時はガラスではなく金属鏡を使っていたため、反射率が悪いことや、すぐに曇ってしまうという欠点があった。
優れた観測家でもあったフックは、反射望遠鏡の必要性を感じていなかったのである。
ニュートンの反射望遠鏡
ニュートンの反射望遠鏡
また、ニュートンは光が粒子であるという説を展開していたが、フックは波動説を主張していた。
こうしてフックとニュートンの間に対立が発生するが、すでに王立協会で確固たる地位を築いているフックに対しニュートンが譲歩する形で、この対立は 1676 年にいったん収束する。
エドモンド・ハレー
エドモンド・ハレー
1684 年、エドモンド・ハレーがニュートンの数学の能力や、力学に対する洞察力に感銘を受け、後に『プリンキピア』として出版されることになる書籍の出版を進める。
プリンキピアの原稿は王立協会に持ち込まれ、それを読んだフックは、ニュートンに対して様々な圧力をかけた。だが、ハリーという知己を得たニュートンは、この圧力に屈しなかった。
フックは、ニュートンが言う引力を先行発見したと主張するが、フックのいう引力とは、天体相互の場合のように、似たもの同士が引き合う作用のことなのであった。しかも、それは一定の範囲の中でしか作用しない。これに対して、ニュートンの万有引力は、類似物の間だけではなく、すべての物体の間に働く力である。しかも、その作用は、どんなに離れていても及ぶものだ。
プリンキピア
『プリンキピア』
フックが没すると、王立協会会長のニュートンは、フックが生涯の住処としたグレシャム・カレッジを引き払い、フックが製作した実験器具や肖像画を廃棄してしまったとみられている。それほどニュートンはフックを恨んでいたということだろう。

フックの人生を通じて、ピューリタン革命から王政復古、名誉革命を経てハノーバー朝が始まり、首都ロンドンはペストの流行や大火をくぐり抜け、大英帝国へ突き進むイギリスの歴史が見えてくる。
社会が変革期にある時には、すぐ実学に結びつくフックのような実験科学者が重用されるが、王政復古を経て安定期に入ると、ニュートンのような理論科学者が提示する哲学が大事になってくるのが、歴史の流れなのかもしれない。ニュートン個人の恨みより、歴史の大きな潮流が、1 人の偉大な実験科学者を消し去ってしまったのである。

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参考サイト

(この項おわり)
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