
11月18日に開業式が行われたものの、当時の日本には近代的な製鉄技術がなかったため、銑鉄の生産が思うように伸びなかった。高炉の故障も続いた。一方で赤字が膨れあがり、ついに1902年(明治35年)7月に操業停止に追い込まれる。

1904年(明治37年)、日露戦争が勃発すると鉄の需要が急伸し、製鐵所の改良が行われる。7月23日には火入れに成功し、この後、設備は拡張され、鉄の増産体制が敷かれることになる。また、日本人自らの力で高炉の設計・運用もできるようになり、それまで抱えていたドイツ人技術者を解雇した。

1904年(明治37年)、日露戦争が勃発すると鉄の需要が急伸し、製鐵所の改良が行われる。7月23日には火入れに成功し、この後、設備は拡張され、鉄の増産体制が敷かれることになる。また、日本人自らの力で高炉の設計・運用もできるようになり、それまで抱えていたドイツ人技術者を解雇した。
この時代の世界
(この項おわり)
1880年代に入り、日本の産業革命は急速に進んだ。
そして1891年(明治24年)、明治政府は、防衛上の地の利や原材料入手の利便性などの点から九州の八幡村(現在の北九州市八幡東区)に、ドイツ人技師の設計による「製鐵所」の建設を開始する。日清戦争に勝利した日本は、その賠償金を原資に施設の完成を急ぐ。そして1901年(明治34年)2月5日に東田第一高炉で火入れが行われた。