
安重根
1909年(明治42年)、統監を辞任し枢密院議長に復帰した伊藤博文は、同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うためハルビン駅を訪れる。ここで、韓国の民族運動家、安重根によって狙撃され、死亡する。安はその場で捕らえられ、旅順刑務所で処刑される。共犯者も3名逮捕されるが、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、他にも狙撃手がいたことが疑われている。

日本は義兵運動を武力鎮圧し、1910年(明治43年)には日韓併合条約を結び、韓国皇帝は政治の実権を日本に移譲することになる。こうして大韓帝国は滅び、日本は韓国を植民地「朝鮮」と呼ぶようになる。

日本は義兵運動を武力鎮圧し、1910年(明治43年)には日韓併合条約を結び、韓国皇帝は政治の実権を日本に移譲することになる。こうして大韓帝国は滅び、日本は韓国を植民地「朝鮮」と呼ぶようになる。
この時代の世界
(この項おわり)
一方、韓国皇帝は、オランダのハーグで開催されていた万国平和会議に密使を送り、日本の強引なやり方を訴えようとした。そこで、1907年(明治40年)、日本は韓国皇帝を退位させ、第三次日韓条約を結ぶ。
韓国内には日本に対する反感が高まり、武力で抵抗する義兵運動を起こす。