
登頂前のエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ
1953年5月29日に、イギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイが、エベレスト(標高8,849メートル)に世界で初めて登頂する。

エベレスト
エベレストの存在が初めて文献に登場するのは、1717年の中国地図「皇與全覧図」である。
イギリス東インド会社はインド各地の地図を製作していたが、1856年にエベレストの山頂が海抜8840メートルあり、世界最高峰として王立地理学協会に報告した。
イギリス東インド会社はインド各地の地図を製作していたが、1856年にエベレストの山頂が海抜8840メートルあり、世界最高峰として王立地理学協会に報告した。

第3次遠征隊
1818年から1843年まで測量部の長官を務めたジョージ・エベレストにちなみ、この名が付けられた。
1950年代に入ると、中国政府は、「世界の母なる女神」という意味のチベット名「チョモランマ」を採用した。
1950年代に入ると、中国政府は、「世界の母なる女神」という意味のチベット名「チョモランマ」を採用した。
1920年に、イギリス王立地理学会と英国山岳会は、エベレスト遠征隊の組織と資金援助を目的に共同でエベレスト委員会を設立した。1921年の第1次遠征隊は、登頂のための周辺調査を行った。
1922年の第2次遠征隊は、7620メートルの地点に設けられた第5キャンプから、無酸素で3度の頂上アタックを行ったが、いずれも失敗し、雪崩で7名のシェルパが死亡した。
1924年の第3次遠征隊は、7000メートル付近に第4キャンプを設け頂上アタックを行ったが、アンドリュー・アービンとジョージ・マロリーが行方不明となる(登頂に成功したとも言われる)。さらに、許可のないロンシャール谷に入ったことや、映画の中でチベット人の習俗が不正確であったことから当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間、エベレスト入山の許可が出なかった。
1933年から1952年にかけての何度も遠征隊を派遣するが、登頂には至らなかった。
1922年の第2次遠征隊は、7620メートルの地点に設けられた第5キャンプから、無酸素で3度の頂上アタックを行ったが、いずれも失敗し、雪崩で7名のシェルパが死亡した。
1924年の第3次遠征隊は、7000メートル付近に第4キャンプを設け頂上アタックを行ったが、アンドリュー・アービンとジョージ・マロリーが行方不明となる(登頂に成功したとも言われる)。さらに、許可のないロンシャール谷に入ったことや、映画の中でチベット人の習俗が不正確であったことから当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間、エベレスト入山の許可が出なかった。
1933年から1952年にかけての何度も遠征隊を派遣するが、登頂には至らなかった。
1952年にスイス隊が山頂から240メートルの地点まで到達した。イギリスは是が非でも登頂を成功させようと、1953年には万全の体勢を敷き、イギリス人登山家11名、ニュージーランド人登山家2名、ネパール人登山家2名、ポーター362名、シェルパ20名の総勢約400名によるスーパー登山隊を結成した。
チャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームの第1チームは5月26日にアタックするが、酸素不足で撤退をせざるを得なかった。エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイの第2チームは5月28日に出発し、8503メートル地点にテントを設営して夜を明かし、29日11時30分に登頂に成功した。
この成功のニュースは、ナムチェ・バザールのラジオポストを通じて、ロンドンに送られ、エリザベス2世は6月1日の戴冠式の日に先立ってこの成果を知った。
チャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームの第1チームは5月26日にアタックするが、酸素不足で撤退をせざるを得なかった。エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイの第2チームは5月28日に出発し、8503メートル地点にテントを設営して夜を明かし、29日11時30分に登頂に成功した。
この成功のニュースは、ナムチェ・バザールのラジオポストを通じて、ロンドンに送られ、エリザベス2世は6月1日の戴冠式の日に先立ってこの成果を知った。
この時代の世界
(この項おわり)