目次
- 消毒法の発見
- 参考サイト
- 参考書籍
- ブール代数
- この時代の世界
消毒法の発見

センメルワイス
1847年、ウィーン大学総合病院で産科医として勤務していたイグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis)は、産褥熱が感染によって引き起こされることを明らかにした。そこで、解剖室から検診に向かう医師たちに、手を消毒することを義務づけ、その結果、産褥熱による妊婦の死亡率は激減した。

けれども、医師たちは自らの手によって感染症が運ばれるという説を否定し、彼は47歳で不遇の死を遂げる。ルイ・パスツールによって細菌の存在が分かったのは1861年のことである。

けれども、医師たちは自らの手によって感染症が運ばれるという説を否定し、彼は47歳で不遇の死を遂げる。ルイ・パスツールによって細菌の存在が分かったのは1861年のことである。
ゼンメルワイスは、1818年7月1日、裕福なドイツ系商人の第5番目の子供として、ブダペストの商業地区タバンに生まれた。1837年、法科大学に入るためにウィーンを訪れるが、医学に興味を持ち、医科大学へ進学した。
入学後1年で故郷に戻るが、1841年、再びウィーンに戻り、第二ウィーン医科大学に入学した。1844年からシュコダ教授のもとで診断法と統計学を学び、ウイーン大学総合病院第一産科クリニックの助手になった。

当時、ゼンメルワイスが勤務する第一産科クリニックでは、産褥熱による妊婦の死亡が13.10%もあった。ところが、1839年に完成した第二クリニックは、わずか2.03%だったのだ。第一クリニックは医師が分娩を、第二クリニックは助産師が分娩を行っていた。

1847年、友人の法医学者ヤコブ・コレチカが、産褥熱により死亡した検体の解剖を行う授業を行っていた。このとき、彼はメスで指を切ってしまい、間もなく感染症にかかって死亡してしまう。
コレチカの死体を解剖したところ、産褥熱の死体とよく似ていた。そこで、ゼンメルワイスは死体による感染と産褥熱との関係があるという仮説を立て、両クリニックにおける死亡率の統計学的研究を始めた。
その結果、解剖室から出てきた医師や学生たちが、そのまま第一クリニックで分娩に従事していることを突き止めた。
当時は細菌の存在が知られておらず、ゼンメルワイスは臭いでしか確認できない未知の「死体粒子」が医師や学生の手に付着し、それが産褥熱を伝搬すると考えた。そこで、脱臭作用のある塩素水で手を洗うことで死体粒子も取り除けると考え、医師たちに消毒手洗いを義務づけた。
その結果、第一クリニックの死亡率は2.38%へと激減し、第二クリニックと同じ水準となった。

しかし、論文発表が苦手だったゼンメルワイスは、自らの研究成果をウイーン医学界に報告しなかった。代わりに皮膚病学者フェルディナンド・リッター・フォン・ヘブラーが論文を書いたのだが、ウィーン医師会の重鎮らの怒りを買い、1849年、ゼンメルワイスは病院勤務の契約を打ち切られてしまった。
ある医学者は、「病原体を示すことができないのだから、彼の説はうさんくさい」と言ったという。だが、センメルヴェイスの説が受け入れられなかった最大の理由は、「患者を殺していたのは医師の手である」という医師にとって受け入れがたい結論にあった。

1851年、ブタペストに戻ったゼンメルワイスは、聖ロクス病院の産科部長に就任した。手と医療器具を洗浄するという消毒法によって、聖ロクス病院の産褥熱による死亡率は0.85%にまで下がった。
1861年、ゼンメルワイスは『産褥熱の病因、概念、及び予防法』という本を上梓するが、国外では否定的な意見が大半だった。同僚の医師らを「人殺し」とまで呼んだゼンメルワイスの激しい気性と立ち回りのまずさも、不利に働いた。
晩年、ゼンメルワイスの精神状態は悪化し、1865年に47歳で精神病院で死亡した。

ゼンメルワイスの名誉が回復し始めたのは、19世紀末に彼の説がパスツールやドイツ人細菌学者のロベルト・コッホ、スイス生まれのフランス人アレクサンドル・イェルサンなどの発見により証明されてからだ。
1924年、フランス人の医師で作家のルイフェルディナン・セリーヌは医学論文をゼンメルワイスにささげ、彼を「天才」と称賛した。
今日、ゼンメルワイスは病院衛生と消毒の現代的理論の父と見なされている。
入学後1年で故郷に戻るが、1841年、再びウィーンに戻り、第二ウィーン医科大学に入学した。1844年からシュコダ教授のもとで診断法と統計学を学び、ウイーン大学総合病院第一産科クリニックの助手になった。

当時、ゼンメルワイスが勤務する第一産科クリニックでは、産褥熱による妊婦の死亡が13.10%もあった。ところが、1839年に完成した第二クリニックは、わずか2.03%だったのだ。第一クリニックは医師が分娩を、第二クリニックは助産師が分娩を行っていた。

1847年、友人の法医学者ヤコブ・コレチカが、産褥熱により死亡した検体の解剖を行う授業を行っていた。このとき、彼はメスで指を切ってしまい、間もなく感染症にかかって死亡してしまう。
コレチカの死体を解剖したところ、産褥熱の死体とよく似ていた。そこで、ゼンメルワイスは死体による感染と産褥熱との関係があるという仮説を立て、両クリニックにおける死亡率の統計学的研究を始めた。
その結果、解剖室から出てきた医師や学生たちが、そのまま第一クリニックで分娩に従事していることを突き止めた。
当時は細菌の存在が知られておらず、ゼンメルワイスは臭いでしか確認できない未知の「死体粒子」が医師や学生の手に付着し、それが産褥熱を伝搬すると考えた。そこで、脱臭作用のある塩素水で手を洗うことで死体粒子も取り除けると考え、医師たちに消毒手洗いを義務づけた。
その結果、第一クリニックの死亡率は2.38%へと激減し、第二クリニックと同じ水準となった。

しかし、論文発表が苦手だったゼンメルワイスは、自らの研究成果をウイーン医学界に報告しなかった。代わりに皮膚病学者フェルディナンド・リッター・フォン・ヘブラーが論文を書いたのだが、ウィーン医師会の重鎮らの怒りを買い、1849年、ゼンメルワイスは病院勤務の契約を打ち切られてしまった。
ある医学者は、「病原体を示すことができないのだから、彼の説はうさんくさい」と言ったという。だが、センメルヴェイスの説が受け入れられなかった最大の理由は、「患者を殺していたのは医師の手である」という医師にとって受け入れがたい結論にあった。

1851年、ブタペストに戻ったゼンメルワイスは、聖ロクス病院の産科部長に就任した。手と医療器具を洗浄するという消毒法によって、聖ロクス病院の産褥熱による死亡率は0.85%にまで下がった。
1861年、ゼンメルワイスは『産褥熱の病因、概念、及び予防法』という本を上梓するが、国外では否定的な意見が大半だった。同僚の医師らを「人殺し」とまで呼んだゼンメルワイスの激しい気性と立ち回りのまずさも、不利に働いた。
晩年、ゼンメルワイスの精神状態は悪化し、1865年に47歳で精神病院で死亡した。

ゼンメルワイスの名誉が回復し始めたのは、19世紀末に彼の説がパスツールやドイツ人細菌学者のロベルト・コッホ、スイス生まれのフランス人アレクサンドル・イェルサンなどの発見により証明されてからだ。
1924年、フランス人の医師で作家のルイフェルディナン・セリーヌは医学論文をゼンメルワイスにささげ、彼を「天才」と称賛した。
今日、ゼンメルワイスは病院衛生と消毒の現代的理論の父と見なされている。
参考サイト
- 感染制御の父 イグナッツ・ゼンメルワイス:日本BD
参考書籍
ブール代数

ジョージ・ブール
真を1、偽を0という2進数に置き換えることによって、デジタル・コンピュータで代数演算が実現できることを保証する。20世紀に入って登場するリレー式計算機や半導体計算機は、ブール代数を基に回路設計された。
この時代の世界
(この項おわり)