

スエズ運河の原型は、古代エジプト第12王朝のファラオ、センウスレト1世(在位:紀元前1971年~前1929年)の時代にあった。その後、プトレマイオス朝は、アレクサンドリアを結ぶ運河を開き、ローマ帝国に受け継がれる。

エジプトに駐在していたフランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスは、フランス人技師ルペールが皇帝ナポレオンに宛てたエジプトに関する報告書を読み、スエズ運河構築の夢を抱くようになった。
引退したレセップスは、1854年(嘉永7年)、教え子のサイード・パシャがエジプト総督に即位すると間もなく、パシャに運河建設を提案する。このとき、オスマン帝国スルタンの承認が必要という条件付きで、運河建設の認可を得た。

当初、運河建設に反対だったイギリスは、オスマン帝国スルタンに圧力をかけていた。しかしレセップスは外交官時代の人脈を活用し、フランスの皇帝ナポレオン3世や、イギリスの首相パーマストンらの協力を得てゆく。ナポレオン3世の皇后ユジェニーは、レセップスの従兄の娘だった。
1858年(安政4年)12月15日、スエズ運河会社を設立し、ポートサイド沿岸で運河の開削が始まる。

工事にはエジプト人の強制労働(コルヴェ)を活用しながら、常時3万人が使役され続けたという。また、フランスで発明された蒸気駆動の土木建機ラダーエキスカベータも使用された。

着工から11年を経て、1869年(明治2年)11月17日、スエズ運河は開通した。当時の運河は全長164キロ、深さ8メートルだった。

運河開通は世界貿易に劇的な効果をもたらした。半年前に完成していたアメリカ大陸横断鉄道と接続することで、世界一周に要する時間は大幅に短縮された。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌが1872年(明治5年)に出版した『80日間世界一周』では、スエズ運河と大陸横断鉄道を見事に利用している。
日本人として初めてスエズ運河を通過したのは岩倉使節団で、1873年(明治6年)7月のことである。

さて、運河建設には一貫して反対して来たイギリスではあったが、結局、スエズ運河を通過する船の8割はイギリス船籍となっていた。イギリスはスエズ運河会社の株を1つも持っていなかった。
1875年(明治8年)11月、エジプトが近代政策に失敗し、スエズ運河会社の全株主を手放すことにした。イギリスのディズレーリ-首相は、フランスに先手を打ち、電光石火の早業で全株式を買い取り、筆頭株主となる。
第一次中東戦争で敗れたエジプト軍再建に乗り出したナセルは、アスワン・ハイダムを建設し、スエズ運河の国有化宣言を出した。エジプト国民に歓喜して迎えられたナセルだったが、これは第二次中東戦争に発展し、ソ連が核兵器の使用をちらつかせたため、世界機器へとエスカレートする。
1975年(昭和50年)からスエズ運河の拡張工事が始まった。この時の外資援助の第一位となった日本は、36.8%を出資した。

その後もスエズ運河の拡張工事は続けられ、現在は全長193.3キロ、深さ24メートル、幅205メートルになっている。

当初、運河建設に反対だったイギリスは、オスマン帝国スルタンに圧力をかけていた。しかしレセップスは外交官時代の人脈を活用し、フランスの皇帝ナポレオン3世や、イギリスの首相パーマストンらの協力を得てゆく。ナポレオン3世の皇后ユジェニーは、レセップスの従兄の娘だった。
1858年(安政4年)12月15日、スエズ運河会社を設立し、ポートサイド沿岸で運河の開削が始まる。

工事にはエジプト人の強制労働(コルヴェ)を活用しながら、常時3万人が使役され続けたという。また、フランスで発明された蒸気駆動の土木建機ラダーエキスカベータも使用された。

着工から11年を経て、1869年(明治2年)11月17日、スエズ運河は開通した。当時の運河は全長164キロ、深さ8メートルだった。

運河開通は世界貿易に劇的な効果をもたらした。半年前に完成していたアメリカ大陸横断鉄道と接続することで、世界一周に要する時間は大幅に短縮された。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌが1872年(明治5年)に出版した『80日間世界一周』では、スエズ運河と大陸横断鉄道を見事に利用している。
日本人として初めてスエズ運河を通過したのは岩倉使節団で、1873年(明治6年)7月のことである。

さて、運河建設には一貫して反対して来たイギリスではあったが、結局、スエズ運河を通過する船の8割はイギリス船籍となっていた。イギリスはスエズ運河会社の株を1つも持っていなかった。
1875年(明治8年)11月、エジプトが近代政策に失敗し、スエズ運河会社の全株主を手放すことにした。イギリスのディズレーリ-首相は、フランスに先手を打ち、電光石火の早業で全株式を買い取り、筆頭株主となる。
第一次中東戦争で敗れたエジプト軍再建に乗り出したナセルは、アスワン・ハイダムを建設し、スエズ運河の国有化宣言を出した。エジプト国民に歓喜して迎えられたナセルだったが、これは第二次中東戦争に発展し、ソ連が核兵器の使用をちらつかせたため、世界機器へとエスカレートする。
1975年(昭和50年)からスエズ運河の拡張工事が始まった。この時の外資援助の第一位となった日本は、36.8%を出資した。

その後もスエズ運河の拡張工事は続けられ、現在は全長193.3キロ、深さ24メートル、幅205メートルになっている。
この時代の世界
スエズ運河付近の航空写真
(この項おわり)
運河が開通したことで、アフリカ大陸最南端の喜望峰を回ることなくヨーロッパとアジアを結ぶことができるようになった。