
御木本幸吉
1858年(安政4年)、鳥羽のうどん屋「阿波幸」の長男として御木本幸吉が誕生する。父は商売より機械類の発明に関心がある人だったが、商才に恵まれた祖父の影響で、幸吉はさまざまな商売を経験し、志摩の名産である天然真珠の魅力に着目することになる
世界中で天然真珠が高値で取り引きされており、真珠を宿すアコヤ貝が乱獲され絶滅の危機に瀕していた。そこで幸吉は、1888年(明治21年)、アコヤ貝の養殖を手掛けるが、真珠を産まないかぎり価値が出る商材ではなく、間もなく撤退する。
次に目的を「真珠の養殖」に切り替え、まず、アコヤ貝の生態を研究することにした。東京帝国大学の箕作佳吉に学び、原理的に真珠の養殖が可能であることを確信した。
真珠の養殖は、12世紀の中国でも行われていたが、これらは貝殻の内側を利用する貝付き真珠であった。その後も、ヨーロッパで研究が行われていた。

1890年(明治23年)、御木本幸吉は、神明浦と相島(現・ミキモト真珠島で真珠養殖の実験を始める。家族とともに試行錯誤や失敗を繰り返しながら、ついに1893年(明治26年)、養殖アコヤ貝の中に半円真珠が付着しているものを発見した。
1896年(明治29年)、半円真珠の特許を取得し、幸吉の努力は世間に認められたが、その直後、妻・うめが32歳で死去してしまう。

1899年(明治32年)、東京銀座裏に御木本真珠店(現・ミキモト)を開店する。
1905年(明治38年)、真円真珠が完成する。真円真珠の特許は、幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得した。この年、明治天皇に拝謁した幸吉は、「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切ったという。

養殖真珠の量産体制が確立され、1919年(大正8年)、養殖真珠をロンドン市場に出荷するようになった。しかし、真珠相場の下落を恐れた宝石商を中心に排斥運動が起き、パリの裁判で争われた。1924年(大正13年)、天然真珠と養殖真珠には全く違いがないという判決が下され、全面勝訴となった。
一方、天然真珠の輸出で外貨を稼いでいたクェートの経済的ダメージは大きく、餓死者が出るほどだった。こうしてクェートは油田開発へ舵を切ることになる。

1927年(昭和2年)、欧米視察の旅に出た御木本幸吉は、発明王トーマス・エジソンと会見した。
太平洋戦争に入った1940年(昭和15年)、奢侈品等製造販売制限規則が施行され、真珠養殖事業が禁止されてしまった。
終戦後、すぐに養殖を再開する。日本各地を行幸していた昭和天皇が御木本幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったという。
1954年(昭和29年)9月21日、御木本幸吉は96歳で大往生を遂げる。真珠王と言われたが、たいへん質素な食事をとっていたという。
世界中で天然真珠が高値で取り引きされており、真珠を宿すアコヤ貝が乱獲され絶滅の危機に瀕していた。そこで幸吉は、1888年(明治21年)、アコヤ貝の養殖を手掛けるが、真珠を産まないかぎり価値が出る商材ではなく、間もなく撤退する。
次に目的を「真珠の養殖」に切り替え、まず、アコヤ貝の生態を研究することにした。東京帝国大学の箕作佳吉に学び、原理的に真珠の養殖が可能であることを確信した。
真珠の養殖は、12世紀の中国でも行われていたが、これらは貝殻の内側を利用する貝付き真珠であった。その後も、ヨーロッパで研究が行われていた。

1890年(明治23年)、御木本幸吉は、神明浦と相島(現・ミキモト真珠島で真珠養殖の実験を始める。家族とともに試行錯誤や失敗を繰り返しながら、ついに1893年(明治26年)、養殖アコヤ貝の中に半円真珠が付着しているものを発見した。
1896年(明治29年)、半円真珠の特許を取得し、幸吉の努力は世間に認められたが、その直後、妻・うめが32歳で死去してしまう。

1899年(明治32年)、東京銀座裏に御木本真珠店(現・ミキモト)を開店する。
1905年(明治38年)、真円真珠が完成する。真円真珠の特許は、幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得した。この年、明治天皇に拝謁した幸吉は、「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切ったという。

養殖真珠の量産体制が確立され、1919年(大正8年)、養殖真珠をロンドン市場に出荷するようになった。しかし、真珠相場の下落を恐れた宝石商を中心に排斥運動が起き、パリの裁判で争われた。1924年(大正13年)、天然真珠と養殖真珠には全く違いがないという判決が下され、全面勝訴となった。
一方、天然真珠の輸出で外貨を稼いでいたクェートの経済的ダメージは大きく、餓死者が出るほどだった。こうしてクェートは油田開発へ舵を切ることになる。

1927年(昭和2年)、欧米視察の旅に出た御木本幸吉は、発明王トーマス・エジソンと会見した。
太平洋戦争に入った1940年(昭和15年)、奢侈品等製造販売制限規則が施行され、真珠養殖事業が禁止されてしまった。
終戦後、すぐに養殖を再開する。日本各地を行幸していた昭和天皇が御木本幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったという。
1954年(昭和29年)9月21日、御木本幸吉は96歳で大往生を遂げる。真珠王と言われたが、たいへん質素な食事をとっていたという。
この時代の世界
参考サイト
(この項おわり)
1905年(明治38年)には真円真珠が完成。量産体制を確立して海外に輸出するようになるが、真珠相場の下落を恐れた宝石商と裁判になる。これに勝ち、養殖真珠は国際的に認知されてゆく。