目次
- X線の発見
- 火星の運河
- 無線通信の発明
- 世界初の映画「工場の出口」上映
- この時代の世界
- 参考書籍
X線の発見

1895年11月8日、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンは、クルックス管を用いて陰極線の研究をしていたところ、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付いた。クルックス管は黒いボール紙で覆われており既知の光は遮蔽されていたが、目には見えない光のようなものが装置からでていることを発見した。

実験によって、この光は分厚い本や金属も透過するが、鉛には遮蔽されることが分かった。
光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことから放射線の存在を確信し、仮の名前として「X線」と名付けた。

この功績により、1901年、レントゲンは第1回ノーベル物理学賞を受賞した。

実験によって、この光は分厚い本や金属も透過するが、鉛には遮蔽されることが分かった。
光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことから放射線の存在を確信し、仮の名前として「X線」と名付けた。

この功績により、1901年、レントゲンは第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
レントゲンは、物質の比熱の測定、電流の識別、流体の屈折率と圧力の関係、気体の熱容量、偏光に及ぼす電磁気的作用、毛管現象、油滴の拡散、放電管を用いた陰極線の特性など当時の標準的な研究を手広く行っていた。それらについて発表された論文は48編を数えるが、いまとなっては歴史に残るほどのものはひとつもない。
ところが1985年11月、「放電管を用いた陰極線の特性」の実験で偶然発見したものを伝えた49番目の論文が、彼の人生と物理学の歴史を大きく返ることになる。X線の発見である。
これを引き金として、ラジウムやポロニウムなどの放射性元素と、それらが放出する3種の放射線が連鎖反応的に発見され,物理学の関心はいっきに原子、電子、原子核といったミクロの世界へ突入していくことになる。
レントゲンは第一報の終わりでX線の正体について、当時、宇宙空間に充満し光を伝える担い手とみなされていた仮想媒質「エーテル」の縦振動ではないかと予測を述べている。ドイツのラウエらが結晶による回折実験から、X線が短波長の電磁波であることが突き止められたのは1912年のことである。

ところが、レントゲン自身は1897年、「X線の特性に関するさらなる観測」と題する論文をもう1本書いただけでX線の研究から手を引いてしまった。特許をとることもなかった。彼がX線研究に携わったのはわずか2年足らずであった。
その後は再び、それまで行っていた実験に戻ってしまったのである。X線から離れたレントゲンが何をなしたのか、いまとなっては知る人はほとんどいない。なぜレントゲンは物理学の一大フィーバーから身を引いて変凡な実験世界に戻ってしまったのか、いまとなってはだれも知る者がいない。
ところが1985年11月、「放電管を用いた陰極線の特性」の実験で偶然発見したものを伝えた49番目の論文が、彼の人生と物理学の歴史を大きく返ることになる。X線の発見である。
これを引き金として、ラジウムやポロニウムなどの放射性元素と、それらが放出する3種の放射線が連鎖反応的に発見され,物理学の関心はいっきに原子、電子、原子核といったミクロの世界へ突入していくことになる。
レントゲンは第一報の終わりでX線の正体について、当時、宇宙空間に充満し光を伝える担い手とみなされていた仮想媒質「エーテル」の縦振動ではないかと予測を述べている。ドイツのラウエらが結晶による回折実験から、X線が短波長の電磁波であることが突き止められたのは1912年のことである。

ところが、レントゲン自身は1897年、「X線の特性に関するさらなる観測」と題する論文をもう1本書いただけでX線の研究から手を引いてしまった。特許をとることもなかった。彼がX線研究に携わったのはわずか2年足らずであった。
その後は再び、それまで行っていた実験に戻ってしまったのである。X線から離れたレントゲンが何をなしたのか、いまとなっては知る人はほとんどいない。なぜレントゲンは物理学の一大フィーバーから身を引いて変凡な実験世界に戻ってしまったのか、いまとなってはだれも知る者がいない。
火星の運河

ローウェルが“観測”した火星の運河
イタリア王国のミラノ天文台長ジョヴァンニ・スキアパレッリは、1877年の火星大接近の際に口径22cm屈折望遠鏡で観測し、火星全体の表面に線状模様があることを発見した。このとき Canali(イタリア語で「溝・水路」の意)と記述したものを、英語に翻訳された際 Canal(英語で「運河」の意)と誤訳され、火星に運河があると言われるようになった。

パーシヴァル・ローウェル
1893年、火星観測のために私設天文台を建設したアメリカのパーシヴァル・ローウェルは、1895年に『火星』を著し、火星には火星人が住んでおり運河を建設していることを主張した。

ローウェルは、1881年から1882年にかけ、大森貝塚を発見したモースが行った日本についての連続講演を聴講した。翌年、28歳のローウェルは日本へ向かう。それから1893年までの間、のべ3年間にわたって日本に滞在し、異文化の観察を行った。

ローウェルは、1881年から1882年にかけ、大森貝塚を発見したモースが行った日本についての連続講演を聴講した。翌年、28歳のローウェルは日本へ向かう。それから1893年までの間、のべ3年間にわたって日本に滞在し、異文化の観察を行った。

ローウェル天文台
その体験を綴った『極東の魂』に、ローウェルの目に映った珍奇な日本人の姿が綴られている。日本人は物事すべてを逆様に見る倒立した世界に住んでいるというのだ。たとえば、言葉の順序を逆にしてしゃべる、筆を右から左に動かす、本を最後のページから読む、濡れた傘を柄の方を下にして立てかける、マッチを内側に向けて擦る‥‥確かに欧米とは逆ではあるが、まるで異星人に出くわしたかのような紹介の仕方はいかがなものか。
そんなローウェルは、1893年、アメリカに帰国すると、施設天文台の建設に取りかかる。今度のターゲットは火星だ。
1895年の著作『火星』では、早くも火星に運河があることを報告している。火星の重力は地球の0.38倍しかないため、火星人は人類のほぼ3倍の大きさをした巨人であろうと述べている。
想像力のたくましい人物だったようである。
1895年の著作『火星』では、早くも火星に運河があることを報告している。火星の重力は地球の0.38倍しかないため、火星人は人類のほぼ3倍の大きさをした巨人であろうと述べている。
想像力のたくましい人物だったようである。

H.G.ウェルズの火星人
1898年、イギリスのSF作家 H.G.ウェルズが『宇宙戦争』を出版し、そこに登場するタコのような火星人のイメージが世間に定着した。
1938年10月30日、アメリカのCBSネットワーク「マーキュリー劇場」で宇宙戦争のラジオドラマが放送されパニックになったとされているが、実際にはパニックはなく、新興メディアであるラジオを規制するために新聞各社がブラフ記事を掲載したのが真相のようである。
無線通信の発明

マルコーニ
1895年、イタリアのマルコーニは、自宅の屋根裏で装置を自作し、無線通信の実験を始めた。マルコーニが作った装置は、それまでに多くの技術者が開発してきた成果を組み合わせたものだった。伝聞にはモールス符号を用いた。
その夏、実験の場を外に移し、1kmの距離を送信できるようになった。
1901年12月には、カナダとイギリスの間で大西洋を横断する無線通信に成功した。
その夏、実験の場を外に移し、1kmの距離を送信できるようになった。
1901年12月には、カナダとイギリスの間で大西洋を横断する無線通信に成功した。
マルコーニはイタリアの地主の家に生まれ、何不自由のない生活を送っていたが、学校へは行かなかった。14歳の時にたまたま科学雑誌に載っていたヘルツの電磁波の記事に興味を示し、電線が無くても通信ができるのではないかと考えたという。そして、家庭教師だったボローニャ大学のリーギ教授の師事を受け、無線通信装置を作ることになる。

1872年、マルコーニ無線電信会社を設立した。
無線通信の特許権を巡るいざこざはあったものの、1914年に元老議員となり、第一次大戦ではイタリア軍の無線通信部門の責任者となり、最終的に海軍司令官となった。1924年、講釈に叙勲された。
19123年、ファシスト党に参加。1930年にはムッソリーニの命で、イタリア王立アカデミー会長に就任した。

1872年、マルコーニ無線電信会社を設立した。
無線通信の特許権を巡るいざこざはあったものの、1914年に元老議員となり、第一次大戦ではイタリア軍の無線通信部門の責任者となり、最終的に海軍司令官となった。1924年、講釈に叙勲された。
19123年、ファシスト党に参加。1930年にはムッソリーニの命で、イタリア王立アカデミー会長に就任した。
世界初の映画「工場の出口」上映

シネマトグラフ
リュミエール兄弟は、1台で撮影・映写・現像を行うことができるシネマトグラフを開発した。35ミリ・フィルムで、画面アスペクト比は1.33:1。毎秒16フレーム。電気は必要なく手動でクランクを回し、重量は5kgと軽かったことから、世界各地で撮影ができるようになった。
兄弟はリュミエール協会を立ち上げ、世界中にカメラマンを派遣した。日本を含む世界各地の最初期の映像を多く残した。
その後、兄弟はシネマトグラフの特許を売却したが、この活動に刺激を受けたエジソンが劇場用映画制作に乗り出す。

1907年、兄弟は1枚の乾板で三原色を撮影できるカラー写真「オートクローム」を発売する。
兄弟はリュミエール協会を立ち上げ、世界中にカメラマンを派遣した。日本を含む世界各地の最初期の映像を多く残した。
その後、兄弟はシネマトグラフの特許を売却したが、この活動に刺激を受けたエジソンが劇場用映画制作に乗り出す。

1907年、兄弟は1枚の乾板で三原色を撮影できるカラー写真「オートクローム」を発売する。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
科学史人物事典 | ||
著者 | 小山慶太 | ||
出版社 | 中央公論新社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2013年02月 | ||
価格 | 1,012円(税込) | ||
ISBN | 9784121022042 | ||
十六世紀のコペルニクスから現代の先端科学まで、160人以上の科学者を選び、業績だけでなく、当時の世相や科学者たちの素顔も紹介。読んで楽しい人物事典。 | |||
![]() |
宇宙戦争 | ||
著者 | H・G・ウェルズ/中村 融 | ||
出版社 | 東京創元社 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2005年06月01日頃 | ||
価格 | 770円(税込) | ||
ISBN | 9784488607081 | ||
謎を秘めて妖しく輝く火星に、ガス状の大爆発が観測された。これこそ6年後に地球を震撼させる大事件の前触れだった。ある晩、人々は夜空を切り裂く流星を目撃する。だがそれは単なる流星ではなかった。巨大な穴を穿って落下した物体から現れたのは、V字形にえぐれた口と巨大なふたつの目、不気味な触手をもつ奇怪な生物ー想像を絶する火星人の地球侵略がはじまったのだ。 | |||
(この項おわり)