西暦1881年 - 自由党の結成

早すぎた政党誕生
板垣退助
自由民権運動の中の1881年(明治14年)10月12日、、政府は9年後に国会を開くことを約束した。これを受け、板垣退助 (いただきたいすけ) を総裁とする自由党が結成される。
翌年には、大隈重信 (おおくましげのぶ) が立憲改進党を結成する。

自由党は自由民権運動の担い手として全国に組織を広げるが、政府との間に軋轢が生じるようになった。
1873年(明治6年)、征韓論が受け入れられず下野した板垣退助らは、選挙で選ばれた議員による議会をつくることを政府に求め、自由民権運動がはじまる。

1874年(明治7年)、板垣は政治結社「愛国公党」を結成する。
イギリスの議会制度を研究していた板垣は、明治政府に国会設立の建白書を提出する。しかし、政府は耳を貸さなかった。
国会をつくるには国民の理解と協力が不可欠だと感じた板垣は故郷・土佐に戻り、政治結社「立志社」を立ち上げ、在野からの活動に身を投じる。
1877年(明治10年)9月、西南戦争の終結により、武力での反政府運動は難しいことを悟った板垣は、地方での演説会を頻繁に開くようになる。
しかし、1878年(明治11年)7月から、政府は板垣の演説会に警官を立ち会わせるようになった。言論弾圧の始まりである。
にもかかわらず、板垣は全国の政治結社に団結を呼びかけ、9月には46人が大阪に終結した。
1881年(明治14年)7月、北海道開発の長官、黒田清隆 (くろだきよたか) の汚職事件が発覚。板垣は演説会でこれを糾弾した。
やむなく明治政府は、10月12日、9年後の1890年(明治23年)に国会を開設すると発表した。
議会選挙を見据えた板垣は、自らが総裁となり、自由党を立ち上げる。

1882年(明治15年)4月6日、板垣は岐阜での遊説から宿舎に帰る途中、暴漢に刺される。板垣は7つの傷を負いながらも一命は取り留め、「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと伝えられている。
このとき板垣を診察した医者は、後に満鉄総裁、外務大臣、東京市長を歴任することになる後藤新平であった。板垣は後藤の才を見抜き、「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったという。
1882年(明治15年)11月、板垣は後藤を伴いヨーロッパ視察に出かける。これに先立つ3月、伊藤博文 (いとうひろぶみ) らが憲法調査のためにヨーロッパに渡っている。
板垣が日本を留守にしている間、自由党急進派は貧農と結びついて、福島県令の圧政に反抗する福島事件など様々な事件を起こす。このため政府は自由党に対する弾圧を強化し、これに対して自由党は反抗するという悪循環に陥っていった。
帰国した板垣はこの現状を見て、党の先行きに不安を感じた。そこで、党再建のために10万円の政治資金を調達しようとするが、大蔵卿・松方正義 (まつかたまさよし) によるデフレ政策のため、頼みの綱であった豪農層の没落が相次ぎ、資金集めに失敗した。
1884年(明治17年)3月には総理権限を強化して、党員の結集を図ろうとするが、地方の急進派の活動を抑えることができなかった。9月に入ると、福島事件を起こしたグループが中心となり、栃木県令・三島通庸らに対する暗殺未遂事件(加波山事件 (かばさんじけん) )が起きる。
このため、10月29日、板垣は自由党を解散する。

だが、自由民権運動の嵐は収まらず、解散から間もない10月31日から11月9日にかけ、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起するという秩父事件が発生する。

1890年(明治23年)7月1日、約束通り、第1回総選挙が行われる。
板垣ら民権派の政党は300議席中173議席を獲得した。

この時代の世界

1775 1825 1875 1925 1975 1881 1884 自由党 1837 1919 板垣退助 1884 秩父事件 1882 1896 立憲改進党 1838 1922 大隈重信 1883 鹿鳴館がオープン 1835 1915 井上馨 1882 講道館の創設 1860 1938 嘉納治五郎 1882 上野動物園の開園 1890 エルトゥールル号遭難事件 1890 教育勅語の発布 1890 日本初の電話 1880 「君が代」が完成 1885 内閣誕生 1841 1909 伊藤博文 1830 1878 大久保利通 1889 大日本帝国憲法の公布 1890 第1回総選挙 1886 ノルマントン号事件 1891 大津事件 1855 1891 津田三蔵 1844 1897 陸奥宗光 1877 西南戦争 1827 1877 西郷隆盛 1875 同志社英学校が開校 1875 明治天皇があんパンを食す 1873 三菱商会の誕生 1834 1885 岩崎弥太郎 1865 亀山社中 1872 鉄道開通 1871 1873 岩倉使節団 1825 1883 岩倉具視 1833 1877 木戸孝允 1869 日本初の電信線架設工事始まる 1834 1901 福沢諭吉 1868 1869 戊辰戦争 1836 1908 榎本武揚 1867 大政奉還 1828 1899 勝海舟 1837 1891 三条実美 1866 薩長同盟 1864 池田屋事件 1864 第一次長州征伐 1866 第二次長州征伐 1864 高杉晋作の決起 1846 1877 和宮 1867 1916 夏目漱石 1862 1922 森鴎外 1835 1908 西太后 1853 1910 ラーマ5世 1877 1878 露土戦争 1818 1881 アレクサンドル2世 1861 農奴解放令 1869 周期表の提案 1834 1907 ドミトリ・メンデレーエフ 1839 1881 ムソルグスキー 1840 1893 チャイコフスキー 1828 1910 トルストイ 1869 スエズ運河開通 1872 「80日間世界一周」の出版 1828 1905 ジュール・ヴェルヌ 1895 ローウェル『火星』出版 1897 H.G.ウェルズ『宇宙戦争』出版 1867 「資本論」の出版 1818 1883 マルクス 1820 1895 エンゲルス 1809 1882 チャールズ・ダーウィン 1865 メンデルの法則 1822 1884 メンデル 1860 「ロウソクの科学」講演 1866 ダイナマイトの発明 1833 1896 ノーベル 1895 X線の発見 1885 狂犬病ワクチンの開発 1889 パリ万国博覧会 1896 近代オリンピックはじまる 1860 全英オープンゴルフはじまる 1819 1901 ヴィクトリア女王 1871 ドイツ帝国の成立 1815 1898 ビスマルク 1831 1888 フリードリヒ3世 1861 イタリア王国の成立 1820 1910 ナイチンゲール 1824 1907 ウィリアム・トムソン 1866 普墺戦争 1870 1871 普仏戦争 1874 マクスウェルの悪魔 1887 シャーロック・ホームズ登場 1888 切り裂きジャック 1876 電話の発明 1865 1923 ウォレン・ハーディング 1875 神智学協会の設立 1887 マイケルソン=モーリーの実験 1898 米西戦争 Tooltip

参考書籍

表紙 自由民権運動の系譜 近代日本の言論の力
著者 稲田雅洋
出版社 吉川弘文館
サイズ 全集・双書
発売日 2009年10月
価格 1,836円(税込)
rakuten
ISBN 9784642056816
自由民権運動とは何か。「一枚の新聞の数行の文章は百万の兵卒にもまさる」「雄弁家の三寸の舌先は百万の兵に当たる」とされた言論の力に注目。幕末から大正デモクラシーまで、立憲国家の実現をめざした民権家の活動を描く。
 
(この項おわり)
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