
1976年(昭和51年)1月20日、大和運輸(現・ヤマトホールディングス)は、「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの「宅急便」サービスを開始する。
銀座の原料紙問屋「川善」を経営していた両親の元で生まれた小倉康臣は、1919年(大正8年)に日本初の交通整理が行われ、牛車・馬車に代わって自動車が街中を走るのを見て、11月に運送会社の大和運輸を設立した。当時、全国にはトラックが204台しかなかった。
1923年(大正12年)には三越呉服店の専属配送契約を取り付け、1929年(昭和4年)に東京と横浜の間で日本初の路線トラック事業を開始。
1957年(昭和32年)、アメリカの引越運送業者アライド・バンラインズと業務提携。このとき、小倉康臣はアライドの「白猫の親子猫マーク」に惹かれ、許諾を得て社員の子どもが描いた黒猫をアレンジしてロゴマーク「親子クロネコ」を制定した。

1960年代半ばになると全国に高速道路が整備され、他社は次々と長距離の貨物運輸を開始。大和運輸はこの流れに出遅れ、しかも、1973年(昭和48年)の石油危機で経営危機に陥る。
1948年(昭和23年)に大和運輸に入社し、1971年(昭和46年)に父の跡を継いで代表取締役社長に就任した小倉昌男は、自社の収益が低いことを徹底的に分析し、小口荷物より大口荷物を一度に運ぶ方が利益を稼げるという方式が誤りであることに気付く。
当時、郵便小包は6kgという重量制限があった。鉄道を利用する小荷物運送は30kgまで送ることができるが、送り主は駅まで持参し、受取人は駅まで受け取りに行かなければならなかった。2つとも、荷札管理をしておらず、いつ届くのかわからないサービスだった。
小倉昌男は、顧客視点に立って重量単価が高い小口荷物を多く扱えば収益が増えると確信し、1975年(昭和50年)に次の5項目からなる宅急便開発要項を社内発表した。
『宅急便』は、大和運輸のロゴ「クロネコ」をトレードマークに、商標登録された。

1979年(昭和54年)には年間取扱数が1千万個を突破、1984年(昭和59年)には1億個を突破した。この間に、時代を反映し、スキー宅急便、ゴルフ宅急便を開始している。バブル期にはクール宅急便を開始し、1993年(平成5年)に5億個を突破した。
1923年(大正12年)には三越呉服店の専属配送契約を取り付け、1929年(昭和4年)に東京と横浜の間で日本初の路線トラック事業を開始。
1957年(昭和32年)、アメリカの引越運送業者アライド・バンラインズと業務提携。このとき、小倉康臣はアライドの「白猫の親子猫マーク」に惹かれ、許諾を得て社員の子どもが描いた黒猫をアレンジしてロゴマーク「親子クロネコ」を制定した。

1960年代半ばになると全国に高速道路が整備され、他社は次々と長距離の貨物運輸を開始。大和運輸はこの流れに出遅れ、しかも、1973年(昭和48年)の石油危機で経営危機に陥る。
1948年(昭和23年)に大和運輸に入社し、1971年(昭和46年)に父の跡を継いで代表取締役社長に就任した小倉昌男は、自社の収益が低いことを徹底的に分析し、小口荷物より大口荷物を一度に運ぶ方が利益を稼げるという方式が誤りであることに気付く。
当時、郵便小包は6kgという重量制限があった。鉄道を利用する小荷物運送は30kgまで送ることができるが、送り主は駅まで持参し、受取人は駅まで受け取りに行かなければならなかった。2つとも、荷札管理をしておらず、いつ届くのかわからないサービスだった。
小倉昌男は、顧客視点に立って重量単価が高い小口荷物を多く扱えば収益が増えると確信し、1975年(昭和50年)に次の5項目からなる宅急便開発要項を社内発表した。
- 需要者の立場になってものを考える
- 永続的・発展的システムとして捉える
- 他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
- 不特定多数の荷主または貨物を対象とする
- 徹底した合理化を図る
『宅急便』は、大和運輸のロゴ「クロネコ」をトレードマークに、商標登録された。

1979年(昭和54年)には年間取扱数が1千万個を突破、1984年(昭和59年)には1億個を突破した。この間に、時代を反映し、スキー宅急便、ゴルフ宅急便を開始している。バブル期にはクール宅急便を開始し、1993年(平成5年)に5億個を突破した。
この時代の世界
(この項おわり)