あさま山荘事件

極寒の中でカップヌードルをすする機動隊員、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な映像がテレビで生中継された。10日目の2月28日に部隊が強行突入したとき、ピーク時の視聴率が90%近くに達した。人質は無事に救出し、犯人5名は全員逮捕された。
沖縄返還

1952年(昭和27年)に発効されたサンフランシスコ講和条約によって、沖縄県は正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。
1960年代のベトナム戦争では沖縄が最前線基地となり、駐留米軍が飛躍的に増加した。これにともない、米軍による事件・事故も増加した。

また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43年)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90%近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

1969年(昭和44年)の日米首脳会談で、アメリカのニクソン大統領は安保条約延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、結局、米軍基地を維持したままの返還となった。
1960年代のベトナム戦争では沖縄が最前線基地となり、駐留米軍が飛躍的に増加した。これにともない、米軍による事件・事故も増加した。

また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43年)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90%近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

1969年(昭和44年)の日米首脳会談で、アメリカのニクソン大統領は安保条約延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、結局、米軍基地を維持したままの返還となった。
この時代の世界
(この項おわり)
人質を救出するため、警視庁機動隊と長野県警察機動隊が山荘を包囲するが、機動隊員2名と民間人1名の死者を出した。