人類、月に立つ

月面に立つオルドリン
1969年7月20日、アメリカのアポロ11号で月へ向かったニール・アームストロング船長とドウィン・ユージーン・バズ・オルドリンJr.月着陸船操縦士は、人類として初めて月面に降り立った。マイケル・コリンズ司令船操縦士は、司令船で月軌道上を周回していた。

アポロ11号を乗せたサターンV型ロケット
アポロ11号は、7月16日、ケネディ宇宙センターからサターンV 型ロケットで打ち上げられた。
12分後に地球周回軌道に乗り、一周半した後、第三段ロケットを再点火して月へと向かった。

7月19日、アポロ11号は月周回軌道に乗った。
7月20日、アームストロングとオルドリンが月着陸船イーグルに乗り込み、司令船コロンビアから切り離された。世界時間20時17分(日本時間21日4時17分)、月の静かの海に着陸した。
12分後に地球周回軌道に乗り、一周半した後、第三段ロケットを再点火して月へと向かった。

7月19日、アポロ11号は月周回軌道に乗った。
7月20日、アームストロングとオルドリンが月着陸船イーグルに乗り込み、司令船コロンビアから切り離された。世界時間20時17分(日本時間21日4時17分)、月の静かの海に着陸した。
月面に降り立ったアームストロング船長は、次の有名な言葉を発した。
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。
(That's one small step for a man, one giant leap for mankind.
ARPANETが始動

ARPANETのIMP(ルーターに相当)
1969年10月29日22時30分(現地時間)、アメリカのカルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のコンピュータからスタンフォード研究所(SRI)にコンピュータに ARPANET と呼ばれるネットワークで接続し、世界で初めてコンピュータ間のネットワーク通信に成功した。これが、のちにインターネットとして発展してゆくことになる。

UCLAの学生がSRIのシステムにログインするため、"LOG" と入力し、SRIが "IN" と入力する予定だったが、UCLA側が "G" を入力したところでシステムがクラッシュし、結果的に "LO" の2文字が、最初にインターネットで送信されたメッセージになった。

リックライダー
1958年2月に、米国防総省はソ連に対抗するため、軍事利用のための最先端技術の研究開発を行う機関として ARPA(Advanced Research Projects Agency,;高等研究計画局、のちのDARPA)を創設した。

ARPA はコンピュータ開発にも資金を当時していたが、当時はコンピュータ毎にコマンドが異なっていた。

ARPA はコンピュータ開発にも資金を当時していたが、当時はコンピュータ毎にコマンドが異なっていた。

アイバン・サザランド
のちにインターネットのパイオニアと呼ばれるようになるロバート・テイラーのオフィスには3台のコンピュータがあったが、「ある大学と通信中、別の大学と通信する必要が出た場合、別の端末の前までわざわざ移動し、ログインして連絡する必要があった」という煩わしさがあった。彼は、これを改善すべく、「3つの端末で別個に通信するのではなく、1つの端末でそれぞれ別の言語を備えた3つの端末と通信する」というアイデアを考案した。
1957年にBBNテクノロジーズの副社長となったリックライダーは、DEC製のミニコン「PDP-1」を使って、複数のユーザーが同時に利用できるタイムシェアリングシステムを実現した。
1957年にBBNテクノロジーズの副社長となったリックライダーは、DEC製のミニコン「PDP-1」を使って、複数のユーザーが同時に利用できるタイムシェアリングシステムを実現した。

PDP-1
リックライダーはARPAのIPTO部長に就任し、「銀河間コンピュータネットワークメモランダム」の中で、現在のインターネットを構成するほとんどの要素を提案した。
1964年にリックライダーの後任としてIPTO部長に就任したアイバン・サザランドは、1965年に彼のアイデアを具現化しようとするが、うまくいかなかった。
1964年にリックライダーの後任としてIPTO部長に就任したアイバン・サザランドは、1965年に彼のアイデアを具現化しようとするが、うまくいかなかった。

ロバート・テイラー
1966年にサザランドの跡を継いでIPTO部長に就任したテイラーはコンピュータの専門家ではなかったため、マサチューセッツ工科大学リンカーン研究所から電気工学者のローレンス・ロバーツを引き抜き、ネットワークに必要な要件を定義させた。こうして1967年に ARPANETがプロジェクトとして発足した。
テイラーは ARPANET構築業者を探すが、多くの企業は彼の提案を絵空事として取り合わなかった。1969年4月に、ようやく、リックライダーの古巣のBBNテクノロジーズとネットワーク構築契約を結んだ。
テイラーは ARPANET構築業者を探すが、多くの企業は彼の提案を絵空事として取り合わなかった。1969年4月に、ようやく、リックライダーの古巣のBBNテクノロジーズとネットワーク構築契約を結んだ。

IMP
BBNは、ハネウェル社ののDDP-516というミニコンピュータを使って IMP(Interface Message Processor)というパケット交換機を製作した。今日で言うところのルーターに相当する。IMP 同士はモデムを介して専用線(50kbit/s)で相互接続した。
1969年10月に、ARPANETは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、 カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)、 ユタ大学、 スタンフォード研究所(SRI)の4拠点を結んだ。

1973年9月までに、ARPANET には40台のIMPが接続された。この年、人工衛星の通信リンクで ARPANET に接続し、ノルウェーがアメリカ以外で初めて ARPANET に接続した国になった。
1975年に、ARPANET の運営がアメリカ国防情報システム局に引き継がれた。
1969年10月に、ARPANETは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、 カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)、 ユタ大学、 スタンフォード研究所(SRI)の4拠点を結んだ。

1973年9月までに、ARPANET には40台のIMPが接続された。この年、人工衛星の通信リンクで ARPANET に接続し、ノルウェーがアメリカ以外で初めて ARPANET に接続した国になった。
1975年に、ARPANET の運営がアメリカ国防情報システム局に引き継がれた。

UNIX誕生

ケン・トンプソンとデニス・リッチー

DEC PDP-7
1964年に、マサチューセッツ工科大学、ベル研究所、General Electric(GE)がGEのメインフレームコンピュータ用に Multics と呼ぶタイムシェアリングシステムの開発に着手した。Multics には多くの革新的技術が盛り込まれたが、開発は困難を極め、1969年にベル研究所が離脱を表明した。
ベル研究所で最後までMulticsに携わっていたケン・トンプソンは、ファイルシステムを担当していたが、設計が行われただけで実装はされなかった。
トンプソンはプロジェクトの空き時間にスペース・トラベルというゲームを作成した。このプログラムを1回動かすと、メインフレーム「GE-635」のCPU時間で50ドルが課金された。このことが経営陣に知られないよう、トンプソンはスペース・トラベルをミニコン「PDP-7」に移植した。
ベル研究所で最後までMulticsに携わっていたケン・トンプソンは、ファイルシステムを担当していたが、設計が行われただけで実装はされなかった。
トンプソンはプロジェクトの空き時間にスペース・トラベルというゲームを作成した。このプログラムを1回動かすと、メインフレーム「GE-635」のCPU時間で50ドルが課金された。このことが経営陣に知られないよう、トンプソンはスペース・トラベルをミニコン「PDP-7」に移植した。
この経験が役立ち、トンプソンはMulticsのファイルシステムをPDP-7に実装し、次にそれを活用するためのユーティリティ群を開発していく。1ヶ月後にはアセンブラ、エディタ、シェルまで作りあげ、OSとしての機能を果たすようになった。
このOSには名前はなかったが、トンプソンと一緒に仕事をしていたブライアン・カーニハンは、1970年に Unics(Uniplexed Information and Computing Service (Uniplexed Information and Computing Service)と名付けた。のちに UNIX と改められた。
UNIXでは、1970年1月1日午前0時0分0秒を0秒として、そこからの経過秒数をカウントする UNIX時間が共通時間だ。

ベル研究所のコンピューティングサイエンス部門は、UNIX開発の資金を募るも難航。そこで、他部門の依頼でワープロを開発するという名目で PDP-11 を確保し、開発を進めた。このとき、文書清書システムroff(のちの troff)とテキストエディタが完成した。
システムが複雑になり利用者が増えたことから、1971年11月に最初のUNIXプログラマーズマニュアルが man形式でリリースされた。

トンプソンは、UNIX向けのプログラムを開発するために、Multics上で動作していた BCPL を元に高級言語の B言語を開発した。1972年に、デニス・リッチーはB言語を改良し、実行可能な機械語を直接生成する C言語のコンパイラを開発する。1973年のバージョン4で、UNIXはC言語で書き改められた。

1972年の ACM(Association for Computing Machinery)のシンポジウムでUNIXが公にされた。しかし、1956年の独占禁止法違反の訴訟での和解判決合意により、ベル研究所の親会社であったAT&Tはコンピュータ産業への進出を禁止されており、AT&TはUNIXを商用販売することができなかった。ベル研究所はメディア代と送料だけ受け取り、UNIXを学術および研究機関に配布し始めた。

利用者はUNIXが ARPANET(のちのインターネット)のミニホストになる可能性に気づき、ネット上での配布が始まった。1975年5月、RFC 681の中でUNIXをARPAネットワークのホストとして採用する利点が記された。
1978年に入ると、UNIXがPDP-11以外へ移植されるようになる。C言語コンパイラが動けば、UNIXの移植は比較的容易であった。
1979年1月、ベル研究所が開発するUNIXとして最後にものになるバージョン7がリリースされる。
一方、1979年末、カリフォルニア大学バークレー校では仮想記憶機能への対応を行い、バークレー版のUNIX「BSD」を開発した。この時期、BSD開発の中心となったのが、後にサン・マイクロシステムズに入社しSunOSを開発することになるビル・ジョイである。彼はフルスクリーンエディタ viを開発した。

1983年、AT&Tに対する2度目の独占禁止法違反訴訟が起き、AT&Tは解体させられた。この結果、AT&Tはコンピュータ産業への参入が可能となり、UNIXのライセンスビジネスをはじめる。AT&TはUNIXのバージョンを System V として統合した。しかし、このライセンス条件が厳しかったことから、オープンだったUNIX文化が絶滅の危機に瀕する。そこで、リチャード・ストールマンは GNUを設立し、フリーソフトウェア運動を展開する。
1988年に、System V と BSD の折衷案として、IEEE POSIXとして標準化される。1991年、リーナス・トーバルズが Linux の開発をはじめる。
このOSには名前はなかったが、トンプソンと一緒に仕事をしていたブライアン・カーニハンは、1970年に Unics(Uniplexed Information and Computing Service (Uniplexed Information and Computing Service)と名付けた。のちに UNIX と改められた。
UNIXでは、1970年1月1日午前0時0分0秒を0秒として、そこからの経過秒数をカウントする UNIX時間が共通時間だ。

ベル研究所のコンピューティングサイエンス部門は、UNIX開発の資金を募るも難航。そこで、他部門の依頼でワープロを開発するという名目で PDP-11 を確保し、開発を進めた。このとき、文書清書システムroff(のちの troff)とテキストエディタが完成した。
システムが複雑になり利用者が増えたことから、1971年11月に最初のUNIXプログラマーズマニュアルが man形式でリリースされた。

トンプソンは、UNIX向けのプログラムを開発するために、Multics上で動作していた BCPL を元に高級言語の B言語を開発した。1972年に、デニス・リッチーはB言語を改良し、実行可能な機械語を直接生成する C言語のコンパイラを開発する。1973年のバージョン4で、UNIXはC言語で書き改められた。

1972年の ACM(Association for Computing Machinery)のシンポジウムでUNIXが公にされた。しかし、1956年の独占禁止法違反の訴訟での和解判決合意により、ベル研究所の親会社であったAT&Tはコンピュータ産業への進出を禁止されており、AT&TはUNIXを商用販売することができなかった。ベル研究所はメディア代と送料だけ受け取り、UNIXを学術および研究機関に配布し始めた。

利用者はUNIXが ARPANET(のちのインターネット)のミニホストになる可能性に気づき、ネット上での配布が始まった。1975年5月、RFC 681の中でUNIXをARPAネットワークのホストとして採用する利点が記された。
1978年に入ると、UNIXがPDP-11以外へ移植されるようになる。C言語コンパイラが動けば、UNIXの移植は比較的容易であった。
1979年1月、ベル研究所が開発するUNIXとして最後にものになるバージョン7がリリースされる。
一方、1979年末、カリフォルニア大学バークレー校では仮想記憶機能への対応を行い、バークレー版のUNIX「BSD」を開発した。この時期、BSD開発の中心となったのが、後にサン・マイクロシステムズに入社しSunOSを開発することになるビル・ジョイである。彼はフルスクリーンエディタ viを開発した。

1983年、AT&Tに対する2度目の独占禁止法違反訴訟が起き、AT&Tは解体させられた。この結果、AT&Tはコンピュータ産業への参入が可能となり、UNIXのライセンスビジネスをはじめる。AT&TはUNIXのバージョンを System V として統合した。しかし、このライセンス条件が厳しかったことから、オープンだったUNIX文化が絶滅の危機に瀕する。そこで、リチャード・ストールマンは GNUを設立し、フリーソフトウェア運動を展開する。
1988年に、System V と BSD の折衷案として、IEEE POSIXとして標準化される。1991年、リーナス・トーバルズが Linux の開発をはじめる。
参考書籍
参考サイト
- 月探査情報ステーション
- Apollo 11 Moon Landing:YouTube
この時代の世界
(この項おわり)