普墺戦争
![普墺戦争](img1866-03.png)
普墺戦争
1866年6月、ビスマルクの策略によりプロイセン王国がオーストリア管理地域に介入し、普墺戦争が起きる。
![メッテルニヒ](img1866-04.png)
メッテルニヒ
1814年に成立したウィーン体制のもと、ドイツ統一が進められていた。しかし、上からの改革は遅々として進まず、1848年、フランスで二月革命が、続いてウィーンで三月革命が発生。27年にわたり宰相の座にあったメッテルニヒを解任した。
オーストリア皇帝フェルディナント1世は憲法制定議会の開催を約束し、革命運動は収拾に向かうかに見えた。
オーストリア皇帝フェルディナント1世は憲法制定議会の開催を約束し、革命運動は収拾に向かうかに見えた。
![フランツ・ヨーゼフ1世](img1866-05.png)
フランツ・ヨーゼフ1世
自由主義者たちはフランクフルト国民議会を開催する。そして、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表したことに象徴されるように、ブルジョワジーとプロレタリアの階級対立が新たな対立軸として明確になっていく。
これに危機感を抱いた政府は憲法制定議会開催を反故にし、自由主義者の弾圧を開始。ウィーンでは2千人近い犠牲者を出して革命運動は鎮圧された。
体制刷新のためにフェルディナント1世が退位し、甥のフランツがフランツ・ヨーゼフ1世として即位した。
これに危機感を抱いた政府は憲法制定議会開催を反故にし、自由主義者の弾圧を開始。ウィーンでは2千人近い犠牲者を出して革命運動は鎮圧された。
体制刷新のためにフェルディナント1世が退位し、甥のフランツがフランツ・ヨーゼフ1世として即位した。
1864年、デンマーク戦争で、オーストリアとプロイセンは協力して戦ったが、戦後のシュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分問題で対立。プロイセン宰相ビスマルクは、プロイセン王国がオーストリア管理地域に介入し、若いフランツ・ヨーゼフ1世を挑発し、普墺戦争が勃発する。
モルトケの指揮するプロイセン軍は、7月のケーニッヒスベルクの戦いで圧勝。7週間戦争と呼ばれるように短期間で終結した。
![](../../../common/space.gif)
講和条約が結ばれ、ドイツ連邦は解体。プロイセンはハノーヴァー、クーアヘッセン、ナッサウ、フランクルフトを獲得し、領土を広げた。翌1867年、解体したドイツ連邦に代わり、プロイセンを中心に、マイン川以北の22カ国との君主連合である北ドイツ連邦が結成された。これが1871年にドイツ帝国となる。
一方のオーストリア帝国は、翌1867年、ハンガリーを王国として独立を認め、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる同君連合として、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生する。
モルトケの指揮するプロイセン軍は、7月のケーニッヒスベルクの戦いで圧勝。7週間戦争と呼ばれるように短期間で終結した。
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講和条約が結ばれ、ドイツ連邦は解体。プロイセンはハノーヴァー、クーアヘッセン、ナッサウ、フランクルフトを獲得し、領土を広げた。翌1867年、解体したドイツ連邦に代わり、プロイセンを中心に、マイン川以北の22カ国との君主連合である北ドイツ連邦が結成された。これが1871年にドイツ帝国となる。
一方のオーストリア帝国は、翌1867年、ハンガリーを王国として独立を認め、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる同君連合として、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生する。
ダイナマイトの発明
![アルフレッド・ノーベル](img1866-02.png)
アルフレッド・ノーベル
ニトログリセリンは、わずか数滴で強力な爆発を起こすことが知られていたが、少しの衝撃で爆発してしまうという欠点があった。
そこで、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルは、ニトログリセリンとケイ藻土を混ぜることで、振動に強い「ダイナマイト」を発明する。1866年のことだった。
![](../../../common/space.gif)
ノーベルは無煙火薬の発明製造なども行い、事業家としても成功する。
彼の遺言によって、その遺産を基金としたノーベル賞が創設される。
そこで、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルは、ニトログリセリンとケイ藻土を混ぜることで、振動に強い「ダイナマイト」を発明する。1866年のことだった。
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ノーベルは無煙火薬の発明製造なども行い、事業家としても成功する。
彼の遺言によって、その遺産を基金としたノーベル賞が創設される。
この時代の世界
(この項おわり)