
チャールズ・ポンジ (1920年)
イタリアで生まれたチャールズ・ポンジは、1903年、21歳の時に移民としてアメリカへ渡り、ニューヨークのレストランで働きながら英語を覚えた。このとき、レストランの釣り銭を誤魔化し逮捕された記録が残っている。1907年に、カナダのモントリオールに移り、偽名を使って国際銀行の見習いとなる。しかし、客のサインを偽造した小切手詐欺を働き再度逮捕された。刑期を終えアメリカに戻るが、不法移民として1年間拘束された。
ポン時は、1907年に誕生した国際返信切手兼制度について、切手の交換レートと実際の外貨交換レートに差があり、利ザヤを稼ぐことに気づき、投資会社セキュリティ・エクスチェンジ・カンパニー(SEC)を設立し、90日間で40%の利回りが得られるという名目でボストンに多いブルーカラーから投資資金を集めた。第一次世界大戦の影響を受けなかったアメリカで資金を集めることは容易だった。

1980年代に経済学者ハイマン・ミンスキーは、ポンジの詐欺手法をポンジ・スキーム(Ponzi scheme)と呼び、その特徴は次のようなものであった。

ボストンポスト紙は、8月2日にSEOでは国際返信切手券の取引実態がないことを暴露し、10日にSEOは破産する。ポンジの言うとおりの配当を出すには、当時の国際返信切手券総発行額の6倍以上が必要だったと考えられている。ポンジの負債は1000万ドルに及び、連邦刑務所に収容された。
仮釈放になるが、フロリダ州で不動産詐欺を働き、アメリカ市民権を剥奪、イタリアに強制送還された。
ポン時は、1907年に誕生した国際返信切手兼制度について、切手の交換レートと実際の外貨交換レートに差があり、利ザヤを稼ぐことに気づき、投資会社セキュリティ・エクスチェンジ・カンパニー(SEC)を設立し、90日間で40%の利回りが得られるという名目でボストンに多いブルーカラーから投資資金を集めた。第一次世界大戦の影響を受けなかったアメリカで資金を集めることは容易だった。

1980年代に経済学者ハイマン・ミンスキーは、ポンジの詐欺手法をポンジ・スキーム(Ponzi scheme)と呼び、その特徴は次のようなものであった。
- 元本保証
- 高い利回り
- 少額出資
- 紹介料を支払って出資者を囲い込む
- はじめのうちは配当金が支払われる

ボストンポスト紙は、8月2日にSEOでは国際返信切手券の取引実態がないことを暴露し、10日にSEOは破産する。ポンジの言うとおりの配当を出すには、当時の国際返信切手券総発行額の6倍以上が必要だったと考えられている。ポンジの負債は1000万ドルに及び、連邦刑務所に収容された。
仮釈放になるが、フロリダ州で不動産詐欺を働き、アメリカ市民権を剥奪、イタリアに強制送還された。
この時代の世界
(この項おわり)
国際返信切手券の交換で得られる利益を分配するという触れ込みだった。
ところが、これが大規模な投資詐欺で、国際返信切手券の取引の実体がないことが暴露され、8月12日にSECは倒産し、ポンジは詐欺罪により連邦刑務所に収容される。